「しきたり」と革新の街、京都

 京都は、じつに洗練された、極めつけの田舎である。百五十万都市をさして田舎とは、首をかしげる人も多いかもしれないが、「一見(いちげん)さん」を入れないなどという考え方が、都市に起こるはずはない。
 「あの人、誰?」「客なら誰でもいいやん」などという無節操な都市とは、やはり峻別(しゅんべつ)されるべき街なのである。
 それゆえ、京都の魅力は、なにより観光客が歩きださない早朝に集約される。家の前を、外側から掃いている人々をまずはご覧いただきたい。ゴミは外に向けて掃いてはならぬ。しかも隣の家の前一メートル辺りから掃きだすのが礼儀。それは守らなくてはならないが、調子に乗ってそれ以上掃くと、これは無礼になる。
 人と人との距離が、遠からず近すぎず。その点が、同じ田舎でも余所(よそ)ではあり得ない洗練なのだろう。人の心にむやみに近づかない。これは朝の掃き掃除と同じ原理である。
 京都に住むと、とにかくいろいろと「しきたり」が多い。「しきたり」とは面白い言葉で、ずっと昔から「為来たり」し事の意味だから、なぜそうするのかと云えば、ずっとそうしてきたからである。
毎月一日や十五日には小豆ご飯を食べるとか、六月三十日には「水無月」という菓子を食べるとか、むろん食べ物ばかりでなく、決まった日に決まった寺社にお参りしたりする。
人が祈るとき、なにか「気」のようなものを発するのだとすれば、京都の神社仏閣にはそうして千二百年間の人々の「祈りの気」が満ちているはずである。集積した「祈りの気」がお参りに行った人のすべてに降りかかる。なにもお線香の煙を手繰り寄せずとも、どこからともなく包み込んでくれるのだ。それが「御利益(ごりやく)」というものだろう。いわば京都人が長年のあいだ為来たった功徳(くどく)が、観光客に惜しみなく「御利益」として舞い落ちるのである。
 むろん古い神社仏閣は、風水なども気にしつつ建てられてはいるが、人の気持ちの蓄積にはきっと、それ以上のパワーがあるに違いない。雑巾がけや庭掃き、草引きなども、何百年も続ければ立派なパワースポットを作るのである。
 しきたりの多い伝統的な暮らしをしていると、当然のことにそれを破ろうとするパワーも内側から生まれてくる。京都府民が長く革新の政治を支持してきたのも、また駅ピルのような斬新なものが出来てしまうのも、そういうことだ。
 そして京都の底力の最大の要素は、たぶん京都人による京都人への贔屓(ひいき)だろう。
 私が天龍寺にいたとき、平田老師は修理した法堂(はっとう)の天井に新たな雲龍図を描いてもらう画家を捜していた。老師は当初から京都人しか考えておらず、最終的には加山又造氏に決まったのだが、誰にせよ、京都出身の人でなければいけなかったのである。
 地元の人を贔屓するのも、これは田舎の感覚だろう。しかしそのおかげで京都には他ではありえない技術や人材が守られている。京セラやオムロンという京都の会社がリストラを極力しない背景にも、どこか同じような感覚がありそうな気がする。
 今の日本こそ、京都を見習い、もっと身贔屓な田舎になるべきではないか。もう一度申し上げるが、京都こそは偉大なる田舎である。

2010/11/25 ジパング倶楽部掲載

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