子供のころ、大人というのは複雑でよく解らない人々だと思っていた。酒を飲みタバコを吸う様子にも、きっと大きくならないと子供には解らない理屈があるのだろうと思っていた。小学校から中学に上がってもその感覚は変わらず、大人の行動について一々理由を訊こうなんて、ほとんど思わなかった気がする。
ところが最近の子供は、なんでも訊いてくるようだ。「どうしてタバコなんて吸うんですか?」「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」「どうして給食費を払わなくてはならないんですか?」。
「どうして」と訊かれて真面目くさって答える大人も、昔はあまりいなかった。「当たり前だ、そんなの」で済まされたり、嗤いながらワケの解らないことを言われたり、あるいは大人どうしで笑いあったりする。そんな反応が多くはなかっただろうか。だからこそ、大人はますます複雑でよく解らない存在になっていったのである。
成長に伴って自分なりに理解していったのは、大人の判断基準は一つでは済まず、あまり一概なことは言えないこと。自分にはまだまだ解らないことが多すぎるということだった。
中学からは運賃が大人と同じになることもあり、二、三年生になるとなんとなく大人の気分も芽生えてくる。しかし大人と議論して感じるのは、いつも大人は圧倒的にたくさんのことを考えているという、敗北感に近い感覚だった。つまり、向こうのほうが常に「思いやり」においてまさっていたのである。
しかし最近の大人には、どうもそれを感じない。単に私が大人になったからそう思うだけだろうか。
現政権の内部で起こっている仲違いや悪口の言い合い、あるいは離合集散の騒ぎなど、今の子供たちにはどう映っているのだろう。
もしかすると子供たちは、大人の世界は解らないなどとは思わず、自分のクラスの学級会に似てると思ってはいないだろうか。
相撲界の八百長批判にしても決して子供に解らない理屈は使われていない。「悪いことをしてはいけない」「徹底的に究明するまで本場所は休む」。普通はそんなふうに子供たちがいきり立つと、先生が口を挟んだりする。「まぁまぁそう興奮するなよ。そんなこと言ったら大相撲がなくなっちゃうぞ。まずは彼らがどうして昔からそんなことをしてきたのか、考えてみようじゃないか」
やがて彼らは、勉強のできない子にできる子が放課後に教えるこのクラスのやり方に、少し似ていると気づくかもしれない。そして幾つかの問題点を挙げ、仲良く、しかも真剣に競い合う方法を模索しつつ、善悪だけでは割り切れない大人の世界に触れるのである。
しかし今のこの国には、そんな思考を促す大人はいないようだ。なんだか無性に寂しい。
2011/02/27 福島民報