1. Home
  2. /
  3. エッセイ
  4. /
  5. 福島・三春町だより 借りる力

福島・三春町だより 借りる力

 あまりにも多くの人が亡くなり、あまりにも多くの孤独や苦悩が生まれた。
 そうして人は、人間や、人間の作ってきたものがいかに脆いものであるかを痛感した。一言でいえば、無常を感じたのである。
 圧倒的な映像がテレビで流れた。阪神大震災のときのように未明の一瞬ではなく、地震と津波のあいだに時間もあったから、残された映像はじつに多い。そこには悲惨で壮絶な、多くの人の最期まで写し撮られている。視ているだけで具合が悪くなる人も多かったようだが、私にとってもそれは現実には見たことのない地獄絵であった。しかし未曾有の災害を受け止めかねている最中から、私たちは同時にいかに多くの善意に包まれているのか、そして具体的にいかに多くの品物やお金や心が寄せられるのかも実感した。
 世界中の人々が、日本を、東北を、心から案じてくれる。技術も、人材も、惜しげもなく派遣してくれる。月並みだが、一人じゃないんだと、本当にそう思った。
 何もできないのがもどかしいと、その気持ちをメイルで伝えてくれた人も本当に多かった。宅配が可能になると、すぐにあちこちから救援の品物も届いた。なかには自分の祖母が三春出身だからというだけで、わざわざ栃木県から三春町まで、ガソリンを運んでくださった方もいる。
 そのような人間の善意に触れつづけ、つくづく思うのは、「自立」というこれまでのスローガンの愚かしさである。
 人の世話にはなるべくならず、なんとか「おひとりさま」で過ごせるように、というのがこのところのトレンドであったはずである。
 多くの商品がそれ用に開発され、学校でも「自立」「自立」と叫ぶから、人はいつしか一人でも生きていけるような錯覚に陥っていたように思える。
 しかし人は、けっして一人じゃないし、本当は一人で生きていくことなどできない。
 消費するもの全てには生産地がある。先生には生徒が必要だし、なにより毎日口に運ぶ食べ物は無数の労働に支えられている。一人で生きられると思うのは、それらを無視しなければ思いつかない考え方ではないか。
 たしか岩手県だったと思うが、津波によって八人家族のうち六人を一瞬に失った女子高校生のことが新聞に載っていた。
 今は親戚に身を寄せているが、その家も家業を続ける可能性を奪われ、とても親戚の女の子の学費まで出す余裕はない。これまで膨らませてきた彼女の将来への夢も、風前の灯火なのだ。
 しかし世の中には奇特な人がいるもので、災害によって孤児になった子供たちのためにと、わざわざ大枚を寄付してくださる方がいる。私のところにも、アメリカの篤志家から連絡があり、孤児たちの奨学金に役立ててほしいが、どこへ送ったらいいかと訊いてきた。
 片親を失った人も含めると、今回の災害ではおそらく四桁の子供たちの将来が危機に瀕している。
 しかし遠慮することはない。遠慮なくそのような厚意に甘え、自分の進みたい道に邁進してほしい。むろん、そのための努力は存分にしてほしい。自分の力など、もともと知れたものだし、人は誰でも多くの人々の力を借りて成長するものだ。
 人の力を遠慮なく借りる。それは若者に限らず、人間に不可欠な能力なのだと思う。もしもどうしても借りるのが嫌なら、あとでゆっくり返せばいい。相手は誰だっていい。本当に困っている人に今度は力を貸してあげれば、君に力を貸してくれた人も本望なはずである。

2011/5/25 NHKカルチャーメンバーズ倶楽部 臨時特別号(NHK文化センター機関誌)

タグ: 福島県・三春町