情報による被災

 世の中にはじつに様々な情報が流れている。むろん、我々には見えなかったり聞こえなかったりする周波数があるように、情報として認識されるのはそのごく一部である。
 東日本大震災直後の津波やそれによる被災地の映像などは、テレビで視たのだし、当然それはある種の情報だったはずである。しかしあまりに未経験の情報であったために、その多くはこれまでインストールされていた脳内ソフトでは扱いかねた。悲しみのレベルを超え、従前の苦しみという範疇をも突き破った映像の数々は、一部の人々を心療内科的な疾患へと導いた。それはもしかすると、情報化に失敗する、ということだったのかもしれない。
 そのような裸の情報に悩み苦しむ一方で、我々は原発についてはむしろ逆の事態に陥っている。つまり夾雑物があまりに多く、裸の情報が示されないのである。
 当初から東電の態度にはそれが窺われた。たしかに個人でボヤを出しかけた場合でも、できれば誰も知らないうちに消したいと思うだろう。そうして一人で水掛けなどしているうちに取り返しがつかないことになる。わかりきったことだが、東電、日立、東芝、石川島播磨重工業などという関係業者は、今もそれを続けてはいないだろうか。
 企業には自社利益を追求する傾向が当然のこととしてある。そうであるなら、あのプラントには関係しなかった業者を入れないと、隠蔽体質は改まらないだろう。情報はそこでは、目先有利なものばかりが選ばれて発信されるのである。
 また記者会見などを視ていて不思議だったのは、発表する内容を必ず原稿にしていたことだ。あの文章は、誰が書いているのか。現場を知っているのか。現場でそんなことをしているヒマがあるのか。どう考えても不思議で仕方なかった。
 そこにはおそらく現場と情報との大きな乖離がある。それは誰もが感じたことではなかっただろうか。
 「再臨界の可能性がある」、いや、「可能性はゼロではない」などという発言者の得失に左右された情報に及んでは、もはやその情報が載せてくるのは何の現実でもない。現場に来る気もない原子力安全委員会の言うことなど、マスコミもどうして放っておく見識をもてないのか。
 東電本部の指示を無視し、第一原発の吉田所長は五十五分の中断もなく一号機での注水を継続していたという。それをさらなる情報の混乱と見ることもむろん可能だが、むしろ関係ない情報に振り回されず現場に専念していた痛快な話と見るべきだろう。
 今、被災地の人々は、とにかく余計な情報に傷を逆撫でされ、あるべき情報の欠如に気力を失いかけているのである。

2011/07/01 調査情報(TBS総合メディア研究所)

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