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福島・三春町だより 青々として悲し

 風評とは、根拠の希薄な噂話のようなものだ。普通は「人の噂も七十五日」といって、あまり気にしないよう促すことが多い。どうして七十五日なのかと考えると、たぶん季節が変わるからだろうと思う。要するにそれだけの時間が過ぎれば、日本では次の季節に移行する。春は夏になり、夏は秋に変わっている。だから同じ気分が続くはずがないではないか、というのである。
 しかし今回の福島第一原子力発電所から飛散した放射性物質の場合、どうなのだろうと首をかしげる。放射性セシウム134の半減期は約2年らしいが、137のほうは30年だという。プルトニウム238は2万4千年、同じプルトニウムの同位体でも244のほうは8000万年である。
 気が遠くなるような年数だが、もともと放射能や放射性物質といわれても、痛くも痒(かゆ)くもない。目にも見えないし、皮膚でも感じられない。つまり、通常は噂をするな、という場合、自分の目や耳や皮膚の感覚を信じればいいじゃないか、という理屈になるのだが、その理屈が初めから通用しないのである。
 実態の感じられない存在への恐怖心は、どういう知識をもっているかだけに左右される。もっと言えば、思い込み次第なのだ。実際どの程度の線量を浴びたらどうなるのか、低線量では充分な資料がないのだから、楽観論者も悲観論者もそれぞれの思い込みで勝手な証拠を捜してくる。これはじつに厄介な事態ではないだろうか。
 総じて、自分の感覚と違うことを思わなくてはならないというのは、不幸なことである。美しい青葉や気持ちのいい風も、放射能を運ぶものと思い直し、美味しそうな果物や野菜も、いやいや内部被曝するに違いないからやめておこうと考える。つまりそのように判断はするものの、それを支持する感覚が全くないのだ。
 そんなとき人は、感覚的に美しく、おいしそうと感じるほどに、言いようのない悲しさを覚えるのだろう。
感覚と判断を乖離(かいり)させつづけることは、そう簡単なことではない。東日本大震災の被災地の中で福島県だけ自殺者が急増していることに、そのことは深く関係しているような気がして仕方ない。
 「冷暖自知」。禅はそう言って生活上の実体験を重視する。しかしそれができない自然環境に我々はどう接すればいいのか。少なくとも、いま福島に住むということは、青々と茂った稲や美味しそうな果物を見て、悲しんでいる人がいることを知ることである。
 これほど慈悲深くなれたのだから、原発や放射能に深く感謝申し上げる。

2011/08/10 NHKカルチャーメンバーズ倶楽部(NHK文化センター機関誌)

タグ: 原発, 東日本大震災, 福島県・三春町