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福島・三春町だより 危うい、予防意識

 病気には何より予防が大切である。それは貝原益軒の『養生訓』にだって書いてある。間違いはないと思う。
 しかし予防意識も、行き過ぎると事によっては恐ろしいことになる。自転車で怪我をしないように、自転車を禁じられていた友人もいたが、けっして溺れないよう、泳ぐなと命じられた哀れな友達もいた。この程度ならまだしも、どんどん進めば、自殺しないよう産まないでおこう、と思う親が出現してもまったくおかしくない。
 生きていくことは、常に危険と背中合わせだし、万が一のことなど考えたら、どこにも行かずに引き籠もるしかない。いや、家にいたところで、隣から火が出る可能性も強盗に入られる危険も、皆無ではないのである。
 僭越ながら、私は生きることの中心命題が、病気や怪我の予防などであるべきではないと思う。やむにやまれずすることがあり、夢中になれば余計なことは忘れてしまう。しかし結果としては安心だったし安全でもあった、というのが理想ではないだろうか。
 ところが今の福島県では、不幸にも放射能被曝への予防意識が、生活の中心になっている人を多く見かける。挨拶代わりに放射線量を言い合い、子供がいると尚更そこにいることが不安になり、かといって年間どのくらいの線量なら安心できるのか、社会的同意を得た現実的な基準値もない。
 いきおい、低ければ低いほど、ゼロに近づくほどいいのだと思い込み、これまでの自然界やレントゲンでの被曝量のことも忘れ、人によっては外国までも避難していく。飛行機に乗るだけでどれだけ被曝するかも、その際は忘れているのである。
 基準値をもたないまま、このまま予防意識だけが増大していくと、かなり危ういことになる。危険性ゼロの橋などないのだが、とにかく危ない橋は渡らないでおこうと思うからである。
 危ない橋とは、たとえば福島県産ばかりか「東北地方の」牛肉や野菜を食べること、むろん結婚相手としての人そのものも含むだろう。
 誰も差別しようと思っていたわけではない。ただ自分や子供たちの被曝をとことん予防したいだけなのだ。しかし一日も早く皆が同意できる基準値をもたないと、予防意識がそのままスルリと差別になる。

2011/11/10 NHK文化センター機関誌

タグ: 福島県・三春町