巨大なダルマの腹にその年の希望の一字を入れる行事も今年で3年目になる。
京都・清水寺の貫主さまが一年を振り返って揮毫(きごう)されるのに対し、こちらは新年の希望を込める。もともと「正月」とは禅寺の「修正会(しゅしょうえ)」が元になった表現で、去年一年の歪みを「修正」する機会である。原点である菩提達磨(ぼだいだるま)の心に帰るべく、禅寺ではどこでも達磨さんの軸を掛ける。
私が住職を務める福聚寺に掛ける達磨図は、室町末期の画僧雪村の筆になる。「八方にらみの血達磨」と呼ばれる雄々しいもので、これを原型として郡山市西田町高柴のダルマの姿もできてきたものと思える。だから私がこのダルマに関わるのも歴史的因縁なのかもしれない。
今日、三春町の「ダルマ市」で、その一文字が除幕される。一年目は「発」、二年目は「根」と入れた。去年は陽のエネルギーが地上に噴出し、混乱を招く年まわりだったから、そんな時こそ「根の営み」が大切だと考えたのである。予測通り去年は、とんでもないものが噴出した。
今年の干支は壬辰(みずのえたつ)。女偏を付ければ「妊娠」である。いろんなモノや人が生まれ出てくるに違いない。そんな時こそ取捨選択の力を発揮し、同じ方向に向かう力を結集させなくてはならない。
今の福島県はさまざまな障碍に満ちている。放射線の低線量被曝の影響もよく分からないまま、除染計画だけは市町村が立てた。しかし、汚染土壌などの「中間」貯蔵施設の設置場所はもとより、各市町村の仮置き場もなかなか決まらない状況である。
本当に「中間」なのかどうか、沖縄の基地と同じことにならないのかどうか。そこがしっかり確かめられなければ、細部も進められないのではないか。
世界で核汚染物を最終処分したのは、今のところフィンランドしかない。
地下百キロ以上の場所に埋設するというのだから、これはもう地球にお返しするようなもの。しかし残念ながら日本という熱い大地では十キロも掘れば温泉が湧きだす。どこにも最終処分など、できないはずである。スカンディナビア半島は、地震さえありえない冷えきった大地だからそんな埋設が可能なのである。
話がいつの間にか、放射能のように遠くまで飛んでしまった。
ともあれ、今日の午前十時、除幕されるダルマの一文字をご覧になり、力を合わせて今何をなすべきか、考えてみていただきたい。
達磨は、不安で仕方がないという弟子を即座に安心させた「達磨安心(だるまあんじん)」でも知られる。「中間」が守られるか否かの不安は、貯蔵法自体を八方にらみで再検討することによっても払拭されるべきだろう。
三十年後に泣いて訴えても、責任を取れる人は誰もいないのである。
2012/01/15 福島民報