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福島・三春町だより 風化

 世の中にはじつにさまざまな「風化」がある。長年の風雪で崖がなだらかになり、川の石が丸みをおび、あるいは作りたての仏像が数百年経って味わい深くなったりする。それによって我々の祖先たちは、「わび」や「さび」などの新たな美意識さえ創出した。いわば、かつてない新たな美を、風化したモノそのものに見出したのである。
 自然は時に、そのような味な演出をするものだが、「風化」にはもう一つ、別な意味もある。それは「記憶や印象が月日とともに薄れていくこと」で、これは純粋に人間的な出来事である。
 たとえば「戦争体験が風化する」みたいな使い方をするわけだが、これもある意味では石や木が風雪に削られるような、自然現象の一種なのだろうか。
 あまりに辛い体験だと、憶いだすのさえ辛い。人はできるなら、嫌なことは憶いださず、平穏な日常に戻りたいのだ。きっと無意識は、何事もなかったように思いたいのではないか。
 しかしこれは、あくまでも酷い体験をした当事者の無意識な心のはたらきである。それならやむを得ないと、誰もが思うに違いない。
 ところが今、この国に起こっている「風化」は、これとは全く別な事態だ。誰が言い始めたのかは知らないが、今回の東日本大震災という出来事そのものが、どんどん「風化」しているのだという。つまり、被災地の惨状がマスコミによって取り上げられなくなり、周囲の人々もすでに忘れつつあるのだ。
 何事もなかったように、周囲の人々だけが日常に還ってしまう。これは被災者にとっては、何よりもキツイ。地震、津波、原発事故に風評被害、その四つの災害に「風化」を合わせ、「五重苦」などと呼ぶ所以である。
 そういえば、この国の人には「水に流す」習慣がある。しかし本来、水に流すのは被災者側のはずであり、彼らはまだまだそんな気分にはなっていない。それなのにどんどん忘れられ、勝手に水に流されてしまうのは、ニグレクト(無視)と呼ばれる虐めにちかい。
 思えばこの国の報道では、無数の遺体を遠景としても映さなかった。泣き顔も全く映していない。それがおそらく、世界から賞賛された忍耐強い国民性とも連動しているのかもしれない。しかしたとえそうであったとしても、せめて資料としては、ありのままの現実を撮っておくべきではなかっただろうか。
 今になると、真冬の仮設住宅での暮らしを想像していただくにも、基礎データが足りないように思える。まっとうに現在の被災者心理を想像するためには、たぶん無数の遺体の遠景と、泣き顔のアップが必要なのだ。

2012/02 NHKカルチャーメンバーズ倶楽部(NHK文化センター機関誌)

タグ: 東日本大震災, 福島県・三春町