道尾秀介 光媒の花 文庫版解説

「長い目」の作家の祈り

 初めて道尾さんに会ったのは、池袋だった。そのとき彼は私の講演を聴きにきた聴衆の一人で、サイン会に並んでくれた挙げ句、「ミステリーを書いています」などと控えめな自己紹介をした。
 正直なところ、私はまだ彼の名前を知らなかった。しかし彼と別れたあと、なぜかすぐにその作品を読んでみたいと思った。まだ風の冷たい季節で、初めて読んだのは『背の眼』だった。
 特にミステリー小説を読む習慣はなかったのだが、あたりまえのように『向日葵(ひまわり)の咲かない夏』を読み、『シャドウ』、『ラットマン』と進んだ。要するに道尾秀介にハマッテしまったのである。
 純文学系の編集者は彼を知らない人が多く、私は自分のことを棚に上げ、そのことをとても不思議に感じるようになっていった。担当の編集者に会うと、彼を知っているかどうかを訊(き)き、知らなければ決まって小説を読むよう勧めた。私が勧めた編集者がすぐさま彼にハマリ、逆に私に教えてくれたのが「流れ星のつくり方」だった。これは短編だが、私には少々ショックな作品だった。
 ミステリーとかホラーといった括(くく)りに、さほど意味があるとは思えなかったが、私はこの短編を読んだとき、まるで表現すべき内容じたいが慎重に選び取ったような、かけがえのない方法を見せつけられた気がした。彼はそして、方法そのものに興味があるわけではない、とでもいうように、ほどなく頭に何の冠もつかないただの「小説」を書くようになっていったのである。
 もともと道尾さんの文章は、読んでいて気持ちがいい。鋭利な刃物で音もなく笹(ささ)の葉に刻みが入れられ、細い指先が手品のようにそれを笹舟に仕上げていく。笹そのものをじっと見ていたはずなのに、いつのまにか笹舟の浮かぶ川の上流や下流、そして対岸までも見せられてしまう。これもおそらく、彼にはごく当たり前の芸当なのだろう。
 しかし問題は、いったい対岸のなにを見せたいのか、ということだ。いつもそこには新たな人間の関係があった。それはたぶん、彼が自分の変化に忠実だということではないだろうか。一作書けば作家は必ず変わる。だから私は、いつだって彼の変化が知りたくて次の本に読み進んできたのである。
 『光媒の花』を読み終えたのは、ちょうど私の『アブラクサスの祭』の映画が完成し、試写会のために上京する直前だった。私はその頃やはり連作短編集『四雁川(しかりがわ)流景』を上梓(じょうし)しており、その類似性に驚いてもいた。「四雁川」が流れる町の「流景」というわけだが、「流景」とは「輝く光」または「過ぎ去った日々」といった重層的な意味をもつ。『光媒の花』というタイトルは、私のなかでは明らかに「流景」に重なっていた。
 試写会が始まるまえのほんの短い時間だったが、私は道尾さんに『光媒の花』の感想を述べたと記憶している。たしか「春の蝶(ちょう)」のラストがとてもよかった、というようなことを話したのではなかっただろうか。
 およそ、連作短編集への感想としては、不備どころか失礼でさえあるだろう。それから私は、その不備を補うように、いくつもの短編をどの程度重ねるべきかで自分がとても迷った、という話をした。迷った挙げ句、同じ川が流れ、同じ景色があること以外、人間は重ねないことにした。そう申し上げたような気がする。
 もとより意図の違う連作であったわけだが、私は『光媒の花』の六つの短編を読み進めながら感じた微(かす)かな戸惑いを、隠せなかった。
 おそらくそれは、六篇の物語がそれぞれ独立して持っている鮮烈な空気のせいなのだろう。私には、たとえば「春の蝶」の由希を轢(ひ)きそうになったトラックが、「風媒花」の亮によって運転されていたことはまだ諒解(りょうかい)できる。しかし「冬の蝶」のサチを、「春の蝶」のサチに重ねようとすると、どうしても空気が分離してしまうのだ。もしかするとそれは、中学二年から数年のブランクを想像に任されてしまった読者の、単なるわがままな不満だったのかもしれない。
 しかし一度そんなふうに感じてしまうと、「遠い光」の最後で印章店がきっちり出てくるのも強引な円環づくりに見えてしまう。やり方がスマートなため目立ちにくい手腕だが、誰にでもできることではないだけに、はたしてこの作品集にとってどれほど有効だったのか、私は判(わか)らなくなってしまったのである。
 第六作の「遠い光」で、語り手の「女の先生」の思いが綴(つづ)られる。

 光ったり翳(かげ)ったりしながら動いているこの世界を、わたしもあの蝶のように、高い場所から見てみたい気がした。すべてが流れ、つながり合い、いつも新しいこの世界を。どんな景色が見られるだろう。泣いている人、笑っている人、唇を噛んでいる人、大きな声で叫んでいる人――。誰かの手を強く握っていたり、何かを大切に抱えていたり、空を見上げていたり、地面を真っ直ぐに睨(にら)んでいたり。

 おそらくここには、連作を円環に繋(つな)げる作者の意志が強くはたらいている。『光媒の花』全体の、それは柔らかだが強い主張でもあるだろう。しかし愚かな読者である私は、最初のときは気づかなかった。すべての物語にごく自然に飛んでいた白い蝶に思い至ったのは、二度目に通読したときだ。
 ギリシャ語で蝶を表すプシュケという言葉は、もともと「魂」を意味する言葉だった。それは、同じ道を辿(たど)るという「蝶の道」に、ギリシャ人が気づいたからだろうか。さまようかに見えながら、じつは蝶にだけ見える光が、彼らを間違いなく先導してくれるのだろうか。
 かつて世界は十分に光っていた、そう、作者は書く。しかしいつしかその白い光が見えなくなってしまったために、人々は哀しく暗い世界に佇(たたず)み、泣いたり叫んだり、地面を睨んだりするのだろう。
 そうであるなら、六篇をつなぐ蝶、いや、蝶だけに見える光こそ、道尾秀介の祈りではあるまいか。「光媒の花」とは特定の人間のことではない。誰もがそうあってほしいと、作家が名づけた人間そのものの別称なのである。
 いつしか強引に見えた円環は気にならなくなっていた。所詮、蝶の道や白い光など、普通の人間に見えるはずもないではないか。

 話は変わるが、道尾さんはとても目が長い人である。「長い目で見る」というけれど、私は彼に会って思わずその言葉を憶(おも)いだした。むろん古典的な字義どおり、穏やかに遠くを見据えている印象も確かにある。わざわざあれだけの紆余曲折(うよきょくせつ)を作りだし、なおかつ着実に伏線を成就させるのだから、長い目でなければ書けない作品ばかりだ。しかし私が申し上げたいのはそういうことではなく、彼の目が実際、とても横に長いということだ。
 ふと思いつき、「仏の三十二相」を調べてみたが、目についてそのような瑞相(ずいそう)は見当たらない。睫毛(まつげ)が長く整っている「瀟睫相」はあるものの、それは「牛眼」に続く形容だからちょっと違う。
 なぜそんなことを言いだしたかというと、どうも彼のあらゆる側面が、あの「長い目」のせいではないかと思えて仕方ないのだ。
 候補五回目で受賞した直木賞までの淡々とした歩みも、酒の強さも、また周囲の人々への尽きせぬ心遣いも、「長い目」のせいとしか思えない。自分のなかから湧きだす群像の如き多様な人々を、彼はあの長い目と長い手であくまでも明るく強く指揮しているかに見える。
 そう。彼は手も長いのだ。
 作品解説を頼まれて作家のからだのことを書いてどうするのか。
 それはそうだが、私としては、たぶん道尾秀介をからだくらいでしか限定したくないのだ。
 二○一一年一月、道尾さんは『月と蟹』で第百四十四回直木賞を受賞した。ほどなく超多忙のなか、対談のためお寺を訪ねてくれた。そしてその後、親しい編集者と一緒に梅を見て祝杯をあげたが、それ以来お会いできずにいる。
 たしかそれから二週間ほどで東日本大震災が起こってしまい、その後は福島県も彼の住む茨城県も、尋常ではない状況が長く続いた。
 彼の住む町の具体的な様子は知らないが、放射能の問題も座視できない現実でありつづけたはずである。
 しかし道尾秀介は「長い目」で見たまま多くを語らない。たぶんマスコミが扱うよりずっと切実な問題が、彼の頭には渦巻いているのだろう。
 いま、原発や放射能の問題を、確実な遠景として描ける作家は、そう多くはない。私自身は渦中に放り込まれてしまったが、道尾さんには是非とも白い蝶のように独自の道を飛びつづけ、その希有(けう)な道を見せてほしい。先に引用した文章のように、人間の「いま」に光や陰翳(いんえい)をもたらすものは、常に「流れ」や「つながり」という歴史も含んだ複雑な「縁起」であり、原発も放射能もその一部を織りなすに過ぎないはずである。
 湯島天神で私が一方的に申告した「約束のような」事柄が果たせていない。しばらくそれは保留になるかもしれないけれど、どうか道尾さん、もちまえの長い目で見ていてほしい。
 あ。白い蝶が逃げるように、ふざけるように、闇の中で炯(ひか)る翅(はね)を動かして、ひらひらと高いところへ昇っていく……。それは長い目をした、ミチオタテハ。タテハチョウ亜科の希少種であった。

2012/10/19 光媒の花 文庫版(集英社)

書籍情報



題名
光媒の花 
著者
道尾秀介 
出版社
集英社 
出版社URL
発売日
2012年10月19日
価格
540 円+税
ISBN
9784087468915 

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