いったい道尾秀介という作家は、どこまで読者の想像力を信じ、挑みつづけるのだろう? 新刊『鏡の花』は、そう思わずにはいられない仕掛けに満ちていた。
一章でベランダから落ちて死んだはずの翔子が、四章では落ちずに高校生として生き延びている。四章では代わりに弟の章也が交通事故で死に、姉の翔子に悼まれている。友達の真絵美とその弟直弥の母親が、四章には登場するのに、五章では両親とも火事で死んだという。
こう書くと、あまりに奇矯な物語に思えるかもしれない。しかし実際には、すべて生と死が風景ごとじつに丁寧に描かれるため、読者はその死を記憶したまま更なる生にも説得されることになる。
二章で水死した瀬下は、他の章では妻の栄恵と共に退職後の自適な暮らしを楽しみ、息子の俊樹は海辺の崖から滑り落ちて三章で死ぬのだが、五章では結婚し、父親になりかかっている。こんなふうに描かれれば、どんな人生も陰りと深みを帯びるのは間違いない。人は被災者に限らず、他者と自らの死も孕みながら生きているのだ。
六つの物語はダイナミックに連動し、塗り直され、あるいは解釈し直され、また補完されたりする。現実にはあり得ないと思うかもしれないが、いや、現実にしかあり得ないとも思えてくる。瀬下家と飯先家の子供どうしの結婚も、葎と真絵美、直弥との偶然の出逢いも、いかにもそうなるしかなかった自然な成りゆきに見えてくるから不思議である。
最終章では、大イチョウの宿ですべてが合流していくのだが、そこは読んで実際に体験していただきたい。夢か現か生か死か、判然としないリアルな時間こそ、読者への最大の贈与だろう。
生と死が等しく慈しみを以て描かれた世界は、何度読んでも懐かしい。人物の全てをいつしか旧知として好ましく感じていることに気づく。
大イチョウの宿は、本当にあるなら是非とも行ってみたい。イチョウは「ゐてふ」、留まった蝶だ。今回も蝶が、夢幻の世界へと導く。
2013/10/13 産経新聞