9月9日早暁、2020年のオリンピック開催地が、東京と決まった。長年、誘致の努力を重ねてきた人々もいたのだから、その喜びは想像もできる。しかし、「250キロも離れている」福島県民としては、複雑な心境である。
いま、県内には、第一原発での3千人を含め、除染、防潮堤建設などのため、全国から作業員が集まっている。正直なところ、それでも人手不足の状況である。そこに、オリンピックのためのインフラ整備が始まると、さらなる人員が大量に必要になるのだ。
またオリンピックに間に合うように、リニア新幹線を名古屋までは開通させるという。現場で作業する人々がそんなに無尽蔵にいるはずもなく、そうなると原発作業員の確保が困難になるのではないか、それが何より心配である。
二つ目の心配は、オリンピックが非常に大量の電気を消費するお祭りだということである。北京オリンピックの時は、周辺の省まで昼間の工場稼働が禁じられた。しかも今度開通するリニア新幹線は、これまでの新幹線の約3倍の電力を消費しながら走る。
8月22日付福島民報によれば、県内の全原発廃炉を求める声は、県民の80.7%にものぼる。これだけややこしい事態を目の当たりにすると、全基廃炉からの再出発しか考えられないのである。
ところがここに、オリンピック開催のための電力供給というプレッシャーがかかることになった。これまで東京都は、使用電力の約25%を第一、第二原発に依存してきた。オリンピックを前にして、この供給源を失うわけにはいかないという、暗黙のプレッシャーが県民すべてにかかるのではないか。
つまり、二つの原発の廃炉を願うことが、図らずもオリンピック開催への妨害として作用してしまう。この理不尽な構図のなかに、いつしか福島県は置かれていたのである。
もともと私は、数値に還元して競い合うオリンピック競技というものに、遊び以上の意味を見いだせない。遊びと承知で楽しめばいいのだが、「国をあげてメダルの倍増を目指す」と安倍晋三総理は息巻いている。グローバリズムの進展に伴い、にわかにナショナリズムの昂(たか)ぶる風潮のなかでは、たかがスポーツとは思えないほど激昂(げきこう)し、おそらく中国や韓国に対する国粋主義的な動きさえ芽生えるのではないか。
憂鬱(ゆううつ)だが、考えても仕方ないことは考えず、オリンピックと原発問題も連動させずに単独で扱うことにしよう。第一、第二原発の速やかな廃炉決定と、オリンピックの成功を心から祈りたい。実はその両方を実現するほうが、メダルの数以上に世界から賞讃される偉業ではないか。
2013/10/06 福島民報