俳句について、何ほどのことを知っているわけでもない私だが、それが落語と同じように、日本人への信頼を前提にした表現形式であることはわかる。たとえば芭蕉の「古池や~」の句でも、蛙が池に飛び込んだことはわかるが、「それがどうしたの?」と訊かれたら、おそらく作者とて絶句したまま答えられないのではないか。間違いないのは、落語のように鑑賞者が話者を信頼し、話者(あるいは作者)じしんの感動に少しでも近づこうと、想像力を最大限に膨らませようとするのが俳句であり、作者はそのことを前提に作句している、ということである。
むろん小説もそうなのだが、鑑賞者の想像力に依存する度合いからすれば、俳句は落語や小説を遙かに超える。それがなければ完成しない形式と言えるかもしれない。
そんな形式に、しかし照井さんはいったいどうしてこの東日本震災を託すことができたのだろう。
むろんそのような問いの立て方じたい、おかしいと考える立場もある。表現の形など、そう簡単に選べるものではなく、照井さんにとっては倒れそうな状態で手近にあった杖が俳句だった。それは長年使い込んだ筋金入りの頑丈な杖で、とにかくそれを掴むしかなかった。そういうことなのかもしれない。
しかし一方で、たとえば照井さん自身は無意識だとしても、そこでは明らかに、それでも人々の鑑賞眼、いや想像力を信じつづけることが選ばれた、とも言えるのではないか。そして私の場合、とても想像力の追いつかない現実を句の背後に感じるたび、信頼を裏切るような負い目を感じてしまうのである。
朧夜の首が体を呼んでをり
気の狂(ふ)れし人笑ひゐる春の橋
ほととぎす最後は空があるお前
釜石に住む照井さんの体験した津波被害の凄惨さは、これだけでも充分だろう。三つの句を勝手に合わせ、私は現実以上の場面を想像してみようとするが、それがまっとうな鑑賞にならないことはわかっている。
しかし俳句という表現形式のせいなのか、私にはまっとうな鑑賞、正当な想像力とは何なのか、やがてわからなくなる。一句を前に一時間も想像を膨らませることもあれば、どうしても入り込めないまま、お経を唱えるしかないと思うこともあった。
御仏の合掌の泥拭ひけり
三・一一神はゐないかとても小さい
神も仏も無力をさらし、木彫の仏は人間に泥を拭ってもらい、慰められてさえいる。また「なぜ生きるこれだけ神に叱られて」という西洋の神への視点は、生き残った苦悩を増加させるばかりではないか。
それでも時に、照井さんはなんとか自分を立て直す視点を作句のなかで探っていく。
いま母は龍宮城の白芙蓉
虹忽とうねり龍宮行きの舟
「いい人ほど虹を渡っていった」という句もあるから、きっと海にかかる虹の真下に、龍宮はあるのだろう。白芙蓉がどんな状況で咲いているのか、私には想像がつかないのだが、それは亡き母と言われる人のやわらかく静謐な笑顔を想わせる。
龍が自然の象徴であるなら、すべては自然のなせるわざ。そう思えば納得できるだろうか。たしかにこの本に描かれたのは、これまでの不自然まで含めた広大な自然であるに違いない。しかし『龍宮』には、そんなイメージに収まらない照井さんの自然が溢れている。
照井さんは今、俳句によってかろうじて人間界につながっているが、もはや鯛やヒラメは寄せ付けない、一匹の龍なのだ。
2013/10/28 本の旅人 11月号