今年の五月八日から、本堂の改修工事が始まった。周囲に足場を組み、屋根に覆いを掛け、トタンやその下の茅を取り除き、屋組みの一部は壊して作り直す。途中、基礎の台木を入れ替えて水平を取り戻し、壁の表面も塗り直し、建具も作り替えるという大工事である。一八〇〇(寛政十二)年に本堂が仮普請でできあがって以来、間違いなく最大の改修工事である。
当初、茅をどこに処分するかが大問題だった。トタンに覆われていたから放射能など関係ないはずだが、とにかく「福島県内の産業廃棄物」と括られるため、県外への移送は許されない。幸い、檀家さんが広い土地を持っていて一手に引き受けてくださり、本当に助かった。しかも「茅はいい肥料になる」と、暢気に喜んでくださる。天はわが普請に与せり、と思える好調な滑り出しであった。
ところが七月になると、未曾有といえるほどの台風の予報が出された。鳶の人たちが一斉に屋根の上にかけた鉄パイプに登り、広大なシート全体に厳重にロープを掛けた。風が入り込んで仮屋根が飛ばないよう、小さな隙間も塞いだのである。
その後の炎暑はご存じのとおり。毎日、猛暑日が続いた。
毎朝八時半に挨拶に来る大工さんが、その日はどういうわけか来なかった。不思議に思っていると、熱射病で三人が倒れたという。
思えば地上でも、体温を上回るほどの炎暑である。大工さんが五十度まで計れる温度計を持って上がっても、屋根裏では振り切れて正確な温度は分からないという。「六十度なのか、七十度なのか」と言って生き残りの一人が力なく溜息をついた。
二日休んでまた全員で屋根裏に入りはじめたのだが、どうにも耐えられない。やがて、朝の五時から現場に来るようになった。涼しい午前中に仕事を進め、昼過ぎには終わる段取りである。
しかしそれでも午前十時頃には相当の暑さになる。地上でさえ病(わくら)葉(ば)が目立つようになり、日によっては朝から屋根裏に熱が籠もっている。こうなったら仕事は真夜中にするしかない、ということになり、「夜の八時すぎくらいから、朝までやってもいいでしょうか」と大工さんが訊いてきた。うちのほうはかまわないけれど、とにかく体を壊さないように、やれるようにやってください、としか言いようがない。
そんなとき再び台風の予報が出され、俄かに雷も鳴りだした。炎暑がやむだけでも嬉しいニュースだった。しかし台風のために厳重なシートは取れず、残暑はまだまだ続く。とうとう八月七日から夜中仕事になった。真昼の暑さも地獄に違いないが、投光器の光で夜中に茅を運ぶのも地獄に違いない。地獄は墜ちるものと思っていたが、今晩も彼らは地獄に登っていく。
2014/08/17 福島民報