「翁忌」というのをご存じだろうか。旧暦の十月十二日のことで、松尾芭蕉の命日である。現在の暦ではすでに過ぎたけれど、旧暦で言うならこれからだ。
「翁」と呼ばれる人は、この国では神に近い存在として尊ばれている。現代人といえる範疇では、鈴木大拙翁、そして百二十歳まで生きた徳之島の泉重千代さんなどに「翁」が使われるが、他にも各地に「翁」と呼ばれる先人はいるはずである。
翁の起源は芭蕉よりも更に古く、『今昔物語集』には神が翁の姿で現れる記述がある。また「春日権現験記絵巻」には実際にその姿が描かれてもいる。
翁とは、単に高齢というだけの存在ではない。金春禅竹の能楽理論書『宿明集』によれば、人間の目には無意識(無心)の状態でのみ見ることができ、意識して見ようとすれば見えなくなる、とある。まるでメーテルリンクの「青い鳥」のようだ。探し求めているうちは出逢えないのである。
芭蕉は、幻住派といわれる禅の仏頂和尚に参禅して仏法の極意を問われ、「蛙とびこむ水の音」と答えて認められたと云う。後に「古池や」と頭につけて句を完成させ、新境地を拓いたとされるが、ここにこそ「翁」の風格を見ることができる。この句ばかりでなく、芭蕉は寂滅の境地における無心の命の躍動を生涯かけて描きつづけたのではないだろうか。
老いれば人はじつにさまざまなものを喪失する。肌の張りも視力も聴力も、あるいは知識や友人だって次第に失っていく。しかし同時に、それは矢鱈な分別や欲望の消失、無心の涵養でもある。全てを喪失したあとの清明な無心の境地を、芭蕉は「古池や」の一言で表し、そこに躍動する無意識の生命力を、「蛙とびこむ水の音」と表現したのではないだろうか。翁の願いは心の寂滅と命の躍動に尽きるのである。
昔から日本人は、さまざまな喪失を単に悲しむのではなく、「わび」「さび」あるいは「かるみ」などと美学に反転させてきた。それは喪失を素直に認めつつ、無心のうちに芽生える小さな命の躍動を愛でる境地である。
今のこの国には、あくまでも喪失に抗おうという力みばかりが目立つ。経済が右肩上がりを続けるという幻想も、アンチ・エイジングの発想と同根ではないだろうか。
「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」
喪失前には目もとめなかった小さな花に、思わず目が行く。未曾有の原発事故による喪失後、我々がどう生きるのか、神になった芭蕉翁が見つめている。
2014/10/19 福島民報