洋の東西を問わず、人間には旅が必要だという認識は、共通しているように思う。
たとえばカール・ブッセの「山のあなた」(上田敏訳『海潮音』所収)では、幸いが山のあなたにあるという思い込みが捨てられない。だから一部の人は、現状への不満解消のために旅に出る。それはそれで、なにがしかのリフレッシュ効果はあるのだろう。
しかしたとえば「青い鳥」でも「十牛図」でも、遠くにあると思っていた幸いが結局は身近にあったという結末を迎える。青い鳥は自分の部屋にいたのだし、求めていた牛(本来の自己)も、外に求めなくなった自己そのものであったことに気づく。つまりそれは、いずれも我が身と日常の魅力を再発見する旅なのである。
しかし我が身と日常をきちんと賞味するには、確かに日常から一度外に出てみる必要がある。「タビ」はもともと境界の外の異界のこと。反対語は「シマ」である。「俺たちのシマ」と、今でもその筋の人々は使うが、そこではなるほど自分のシマとは別な常識がはたらいている。「タビ」に出ることは、だから異界の常識に触れることだ。積極的に自分の「シマ」との「違い」を見つけたほうがいい。
ただそうして異界の違った常識にばかり触れていると、今度は次第に「同じ」部分に目が行くようになる。そして、こんなに違うのにここは一緒だと、同じであることを喜びはじめるのである。旅は常にその両方の心を喚起する。芭蕉のいう「旅心」と、いわゆる「里心」のようなものではないか。
旺盛な「旅心」は、むしろ強固な「里心」から生ずる。自ら立脚する価値観が安定的であればあるほど、その価値観を突き崩して再構築する欲求も強くなるということだろう。
いわゆる巡礼や遍路という旅は、思えば「旅心」と「里心」との両方を適度に満たしてくれるような気がする。誰でもあまりに新規な体験ばかりでは疲れてしまう。その意味では、コースに終わりがあることで安心感がある。そして「同じ」であるものを巡りながら確認する行為は、いわば「里心」の涵養であろう。自分にとっての「懐かしさ」を太く更に頼れるものに育てるのである。
一方でそれはタビでもあるのだから、当然ながらそこには意外な発見、あるいは偶然の出逢いがなくてはつまらない。「奥の細道」の旅に出た芭蕉は、白河の関を越えたところ、つまり「奥」の入り口を過ぎたとき「田植え歌」に「風流」を感じたが、これこそ日常の感性を揺るがすほどの感動である。「風流」とはもともと、日常性が「ゆらぐ」ことを魅力と感じる感性のことだ。
偶然性や意外な出逢いこそ、旅の「風流」な魅力であり、また人生の妙味ではないか。そういえば、長年人生という旅を経てきた人の顔は「風貌」と呼ばれるし、風流な体験を重ねていけば「風格」も身につく。人生には、旅のもたらす「風」が必要だと、日本人はずっと考えてきたのではないか。
あまり考え込んでいないでともかく出かけてみよう。細かすぎる計画は風を止めてしまう。思えば人生そのものが風に吹かれる遍路のようなもの。風に吹かれに、遍路に出てみよう。
初めから「祈り」を掲げる必要はない。大丈夫。振り返ればそこには必ず一筋の祈りが生まれている。
2014/10/24 四国遍路と巡礼の旅