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特集 宗教を巡って

社会不安と宗教の移ろい

 昔から、社会不安と宗教の興隆変化には、一定の因果関係が認められるように思う。簡単に言えば、社会不安が増大することである種の宗教が流行したり、あるいは宗教の内部に変化が起こったりするということだ。宗教である以上、変わらぬ部分があるのは当然のことだが、同時に社会の変化に応じて絶えず変化し続けているのである。
 ざっと振り返るだけでも、たとえば国家の揺籃期に儒教・道教・仏教が流入し、この国の枠組みを作るのに役立てられた。また天変地異や病気に対する霊的な解釈から、平安時代には密教や陰陽道が隆盛になる。貴族社会から武家社会への変化も、人々には相当の不安を招いたことだろう。浄土教という、いわば死後の安寧を説く宗教が、そのタイミングで燎原の火のように広がるのである。
 宗教が本当の意味で民衆化したのは鎌倉仏教の勃興によるが、法然を皮切りに多くの祖師たちが比叡山を下り、総合的だった天台の教えをさまざまに突出させ、あるいは中国に留学して新宗派を開く。これによって、奈良仏教に始まる日本仏教は、禅、念仏、お題目まで揃え、現代へと続くバラエティーの基礎ができるのである。
 天災よりも人災の悩ましさが際立ってくるのが、室町末期から戦国時代だろうか。社会にヒエラルキーを作ろうという動きのせいか、キリスト教が入り込む余地が生まれる。一方で群雄割拠の武士たちは遂に応仁の乱を引き起こし、こうした時代を生き抜くために禅を学び、生前に法名や引導香語(いんどうこうご)を受ける武士たちが増えてくる。
 この時代の禅僧と武士たちの関わりは深く、禅僧が軍師や陣中茶礼(されい)なども担当した。鎌倉時代に始まった僧侶による葬儀も、この頃に一般化していく。茶や能など、文化的な営みも宗教に支えられつつ進んでいくが、これもある意味では宗教として見ることが可能かもしれない。世阿弥の「阿弥」号だけのことではなく、彼による能楽の多くはこの世で浮かばれない霊の成仏を目指したのだし、千利休による「佗茶」の完成は、あらゆるこの世的価値に対峙した。
 江戸時代は比較的泰平な時代ではあったが、幕府倒壊の直前に当たる慶応三(一八六七)年には「天から神符(御札)が降ってくる」とされ、これを世直しの前触れとして「ええじゃないか」などと叫びながら踊る集団が各地に現れた。宗教とは言い切れないにしても、近畿、四国、東海地方など、広範に亘って一種の宗教的熱狂に包まれたことは間違いない。またこれ以前には、天理教、金光教、黒住教など、いわゆる幕末の新宗教といわれる宗教が成立した。その後も宗教内部の自然現象のように新宗教は増え続けるが、貧困、病気、さらには個人主義の行き過ぎなどによる社会不安の増大がその普及拡大の温床になっていく。
 一九二三年の関東大震災、そして第二次世界大戦、さらには最近の阪神淡路大震災など、大きな天災や人災が続いていくが、そのつど「末法思想」にも似た「ハルマゲドン」などが唱えられ、多くの新宗教・新新宗教が教線を拡大していく。近代化や資本主義が進み、競争社会化していくことで「個」の不安は増大し、そこでも宗教的安寧が求められていく。オウム真理教などが一定の知的階層の支持を得た背景には、薄れてきた身体性の回復も大いに関与したと思うが、その悲惨な結末以後も、なお身体性の希薄化は進みつつある。
 震災前の大きな特徴としては、テーラワーダ仏教圏の瞑想が人気を博し、いわゆるスピリチュアルやマインドフルネスと呼ばれるメディテーションが流行していたことではないだろうか。これは欧米で隆盛のナイトスタンド・ブディズムにも呼応する。要するに現代社会の効率主義、拝金主義を真っ向から否定するのではなく、それとうまく折り合っていく宗教、いやほとんど教義抜きの宗教的技術として瞑想が提供されたと言ってもいいかもしれない。
 公明党が与党になったことも含め、震災前の宗教界には大きな世直し思想が失われつつあったのかもしれない。

 以上のような認識を踏まえたうえで、今回の東日本大震災とその後の宗教界の動きを眺めてみたい。
 まず目立ったことは、震災被災者の追悼法要を機に、さまざまな宗教の連携が見られたことだろう。いわゆる宗教者連合のようなものが仙台や福島など被災地に結成され、さらには鎌倉に見られたような合同法要が被災地以外の地でも行なわれた。神道、キリスト教、仏教各派のこうした横断的な連携は、おそらく阪神淡路大震災や新潟県中越地震の後にも見られなかったと思う。
 仙台市の場合は、仏教会単独での慰霊法要を市が認めなかったことも大きな原因ではあったが、ともあれこれまでにない連携が可能になったことは大いなる慶事かもしれない。
 こうした動きのお陰で、私などもこれまで御縁のなかった金光教、黒住教、天理教などの代表者にお目にかかる機会に恵まれた。ほぼあらゆる伝統宗教が積極的に被災地入りし、ボランティア活動に精出した。しかもボランティアの活動の仕方が、阪神淡路大震災のときとは違っていたことも特筆していいだろう。
 阪神淡路大震災の際は、宗教者といえども炊き出しや瓦礫の片付けなど、べつに宗教者でなくてもできる活動で支援することが多かった。いわば法衣を脱いでの支援だったのである。しかし今回は、宗教施設の被災も多く、また支援に入る宗教者の数も多かったからだろうか、宗教者にしかできない支援の在り方が模索されたように思う。
 遺体安置場や火葬場での読経、寺院や神社の復旧活動、あるいは被災者の追悼法要など、多くの宗教者たちがその独自性を発揮しつつ活動したと言えるだろう。しかも多くの寺院や神社などが自ら被災していながら救援活動にも積極的に荷担した。これは阪神や中越でも見られたことかもしれないが、より大規模な形でそれが見られたと言えるだろう。また東北大学に「臨床宗教師」養成講座が開設されたことも特筆に値する。震災を機に、宗教者を病床に呼ぶ病院も出現している。
 壊滅的ダメージを被った宗教施設については、私は復興構想会議で「コミュニティー施設」としての支援を要請した。文化財や観光資源でなくとも、何らかの支援が必要だと感じたのである。
 そう思った背景には、多くの宗教団体による被災地への多額の寄付行為があった。特に伝統宗派の多くは、自派の末寺末社の救済を後回しにして被災三県などに億単位の浄財を寄付した。そのため被災した末寺からは、悲鳴にも似た声が聞かれる状況だったのである。
 結果としては「政教分離」「信教の自由」などのお題目で私の望んだ救済は叶わず、会議からの提言には盛り込まれなかった。しかしその後も全日本仏教会などから再三要求が繰り返されるに及び、とうとう復興庁は翌年の八月、「コミュニティー施設」としての宗教施設にも支援可能であるとの文書を出した。
 ただ現在までに、復興庁などに支援要請を提出した宗教施設は確認されていない。これは、宗教者自身がこの震災からの復興を我が身に課せられた「行」として捉え、得がたい精進の機会と考えているからではないか。私はそんなふうに感じている。
 またもう一点、今回は中越地震のときのような民間の基金ができないことも、原因の一つかもしれない。行政としても、先が見えない感覚が強いからだろう、全国からの支援金は全て県が掌握し、民間に降りてこない。それゆえ申請もしにくいのかもしれない。
 いま、宗教界で問題になっているのは、墓地などの移転手続きである。むろん、個別な改葬のことではなく、津波に晒された地域の墓地全体の移転である。現行の墓地法では、墓地全体の移転などは想定されておらず、移転の申請書類さえ存在しない。また昔は墓地が「入会地」(つまりみんなの土地)として認められていたが、今は「入会地」という発想じたい法律的には存在しない。従って移転したい場合でも数十年前に連名登記した人物の子孫を逐一探し、捺印してもらうほかはなく、これは事実上完全に不可能だ。適切な法改正が待たれる状況なのである。
 いろいろ述べてきたが、今回の震災による宗教界の変化については、まだまだ発現途上であると言うしかない。
 新新宗教の出現という噂は耳にしないし、横の連携を強めたのもいわゆる伝統宗教だった。そこで今後どんな化学変化が起こるのかは、しばらく待ってみるしかないのだろう。
 ある意味で、今回の震災で起こったのは、伝統的な信仰の再認識と、それへの回帰であったのかもしれない。特に故郷を離れざるを得なかった多くの人々にとって、同郷の人々を再び集結できるのは、祭や墓地であることに気づいたはずである。報道のせいもあるのかもしれないが、確かに被災地の祭はどんどん盛んになってきたような気がする。
 地域密着の日本型宗教者たちの活動は、地域密着ゆえに外からは見えにくい。しかし私は、そこで静かに築かれる緊密で大らかなネットワークにこそ、今後も期待したい。

2014/12/05 學鐙

タグ: 仏教, 東日本大震災

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