「みちのく」つまり「道奥」が、けっして蔑称ではなく、ある種の畏怖を伴った尊称だと知ったのはいつ頃だったろうか。 思えばあらゆる文化的伝統を「道」として捉える日本人にとって、その「奥」は誰もが「ゆかしい」と思う場所なはずである。 芭蕉は五十一年という短い生の終わりに『奥の細道』を巡った。白河の関以北を「奥」と見做していたのは確かで、そこで芭蕉は、
風流の初めや奥の田植え歌
と詠んだ。
芭蕉がみちのくに期待していたのは「風流」、つまり心が揺らぐほどの感動なのだ。その後、平泉から山寺を経由して最上川畔の大石田に着き、芭蕉は日和待ちのあいだ熱心に俳諧を学ぶ人々に囲まれる。真摯な疑問に応えてやむにやまれず連句の一巻を残すのだが、ここで芭蕉は「このたびの風流ここに至れり」と感極まるのである。
おそらく芭蕉が期待し、期待どおりに感じた「風流」とは、都には薄れてしまった人々の素朴で真摯な人情ではなかっただろうか。
思えばみちのくは、冬の気候が非常に厳しい。まず何より耐える強さがなければ生きていけない。しかし一方、自然の厳しさは、人々の和合を促す。大雪を前にすれば、些細なことで争っている場合ではないのだ。争いは止められないにしても、まずは協力して風雪に向き合うのではないだろうか。
そういえば、日本仏教の特徴とも云える「怨親(おんしん)平等」の思想も、最初に花開いたのは平泉である。後に鎌倉円覚寺の無学祖元、京都天龍寺開山の夢窓疎石によって広まる思想の原型が、東北から始まった。前九年、後三年の役で亡くなった人々を敵味方に関係なく供養するため、藤原清衡は中尊寺を創建する。全盛期にはいわき(福島県)から外浜(青森県)に至るまで、笠卒塔婆(かさそとば)と呼ばれる供養塔が一町ごとに建てられたという。寺塔四十余り、禅坊三百を超すその規模と広がりは、さながら「仏国土」と呼ぶに相応しい。
それ以前にも奈良の東大寺から法相宗の学僧徳一(とくいつ)大師が「三一権実(ごんじつ)論争」に疲れ、新天地を会津地方に求めてやってきた。慧日寺や勝常寺などを中心に、仏教思想が浸透していく。奈良時代の勅願寺であった寒河江の慈恩寺、岩手の黒石寺などもそうだが、みちのくにはすでに九世紀、多くの御仏たちが祀られ、人々の暮らしと共にあったのである。 また宮城県牡鹿半島の給分浜陽山寺の十一面観音像は謎めいている。津波の多い地域に特徴的な設営に見えるが、一説によれば藤原氏が源氏に滅ぼされたとき、四代泰衡が衣川に流した守り本尊だも言い伝えられる。いずれにせよ、みちのくには来歴のはっきりしない仏像が多いことも確かだ。
今回は「みちのくの仏像」展ということだが、「みちのくの仏像」を一括りにして拝む意味は奈辺にあるのだろう。 およそ、仏像というものを考える場合、初めに朝鮮半島から伝わった像が金銅仏であったことは注目に値する。つまり、日本に伝わる以前には、木彫の仏像は一般的でないばかりか、ほとんどなかったのだ。仏教はさまざまな面で日本という国に馴化(じゅんか)していくが、「木」に神々の降り立つのを実感する我々だからこそ、「仏」も「木」で彫られなくてはならなかったのではないか。
古代、「木」は「け」と呼ばれ、上野(かみつけ)、下野(しもつけ)以北は「け」だらけだった。特に東北の「木」は年輪も密だし、「木」そのものを神聖視する人々も多かったのだろう。おそらくはそれゆえに、みちのくの仏たちには「一木造(いちぼくづくり)」や「素地(きじ)仕上げ」が多い。
それらの素朴で力強い仏たちは、みちのくの人々の祈りによって支えられ、また逆に彼らを照射しつつ見守ってきた。彼らの祈りとはどんなことだったのか、それも仏像を理解する重要な視点だろう。
古来東北には、冷害、干ばつなどによる飢饉が多かった。地震、津波は勿論のことだが、寒冷ゆえの不作も多くの人々を悩ましつづけた。近頃では「コロリと死にたい」などという贅沢な祈りが流行のようだが、まずは「食べたい」「生きたい」「病気を治したい」という切実な祈りがあったことを忘れてはならないだろう。
みちのくには縄文時代からの時間が静かに流れている。御仏たちは狩猟採集や農耕生活の苦悩も、累々たる死者たちの姿と共に、具(つぶ)さにご存じのはずである。そして御仏たちは、死者たちの安寧を保証しつつ、我々にはとにかく雄々しく生きよと呼びかける。私にはそう思えるのである。
2015/01/01 うえの