香だけはいくら贅沢しても、僧侶にとって贅沢とは言えないと、何度か聞いたことがある。近年では、臨済宗妙心寺派の管長だった山田無文老師がよくそう仰っていた。おそらくそれは香の魅力、いや威力、あるいは魔力を知悉されてのことだろう。
香りほど一瞬に別世界へ運んでくれるものはない。思いもかけぬ記憶が甦ることもあるし、ついさっきまでの苦悩を忘れさせてくれたりもする。いったい香りとは何なのだろう……。
昔読んだ学術書らしい本に、香りは果たして物質かどうかという検証について載っていたことを憶いだす。たとえばバラの花から香りが放出されれば、その分だけ幾らかずつでも重さが減っていくはずである。大量のバラで実験すれば、重さの変化として測量できるはずだと、検証チームは考えたのである。
しかしどんなに大量のバラでも、香るにつれて軽くなることは確認できなかった。それが私の記憶する結論で、それゆえ香りは、どうも物質ではなさそうだというのだった。
むろん、トイレの消臭剤や我々の焚く香は、目に見えて揮発し、あるいは燃焼して減っていく。つまり香るにつれて減少していく仕掛けだが、これは商品として売るための人為的な策略でもある。けっして香りの本質と思うべきではないだろう。
もしかしたら香りとは、「気」とか「波動」に近い在り方だろうか。沈香や伽羅などの香を焚いても嫌いだという人にはあまり出会わない。そのため普段はあまり思わないのだが、しかし「匂い」は「気」や「波動」のように、じつは合う合わないが著しくあるようだ。
スイス、ベルン大学の動物行動学者C・ヴェーデキントらの研究によれば、人間が別な人間をいい匂いだと感じるときは、必ずHLA(ヒト白血球抗原)の型が違っているのだという。HLAは人間の免疫力を代表するようなもので、多様性があるほど免疫機能が強くなると考えられる。ヒトは無意識のうちに免疫機能の増強を願い、別な型のHLAをもつヒトを求めているらしいのだが、その場合のサインが「いい匂い」だというのである。
ただしここでの「いい匂い」とは、香水や化粧品由来のものではない。素の匂い、といえば上品だが、いわば微かな汗の匂い、それが「嫌じゃない」という程度の感じ方である。これはつまり、いい匂い(嫌な匂いじゃない)と感じる相手と結ばれることが、生物学的に正しい選択だということだ。何という深遠な仕掛けだろう。
我々僧侶の用いる沈香や伽羅、白檀などにはたぶんそんな仕掛けは関係ない。しかしすぐに慣れてしまう香りに意識を集中し、微かなその香りの膨らみや揺らぎに身を委ねていると、思わず時を忘れる。いわば瞑想状態になってしまうのである。
瞑想状態では、思考が止んで命の流動するはたらきを直接感じている。間違いなく言えるのは、この状態でもやはり免疫力が賦活している、ということである。
いい香りはどう転んでも免疫力を上げる、という話に読めるかもしれないが、申し上げたいのはそんなことではない。仏教では三具足の一つとして香を定め、花は「慈悲」、燈火は「智慧」、香は「清浄」の象徴だが、なにゆえ香は我々に清浄をもたらすのだろう。
おそらく香は、我々の感覚のなかで最も深みに届く。命の最深部にある「清浄心」を、たぶん「いい香り」が引きだしてくれるのだ。僧侶が高価な香を焚くのは、だから贅沢じゃない、という理屈、ご理解いただけただろうか。
異性の匂いなど持ち出すから話がややこしい、と思われるかもしれないが、人が好きになることじたい、おそらく「清浄心」のゆえである。
2015/03/28 なごみ