桜が今年も咲き、大勢の人々が三春の町にやってきた。昔から「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」と言うが、今年は特に「人同じからず」を強く思った。
歳々年々人同じからずとは、本来は同じ人の年齢による感受性の変化のことである。経験や加齢、そして状況の違いなどで、同じ人が同じ花を全く違う思いで眺める。唐の劉希夷(りゅうきい)が歌ったのは桃や李(すもも)の花だったが、日本人ならおそらく誰でも桜を思うことだろう。
満開の桜を見る人々には、遠きを厭(いと)わず車でやってきた家族もいるし、近所から押し車を押してきた独り暮らしのお婆(ばあ)ちゃんもいる。若いカップルもいれば、白髪の老夫婦もいる。同窓会のような団体もいれば、三脚を持参したカメラマン風の人々もいる。お酒で赤ら顔の人もいれば、俳句をノートに書き留める人もいる。仮設住宅から来た人もいれば、桜前線に従って日本を縦断している人もいる。
おそらく、借金に追われる人もいれば、株価の上昇で上機嫌な人もいるのだろう。
特に原発事故から5度目になる今年の花見では、年ごとの比較も思われる。震災直後の滝桜には、県内の人々しかいなかった。花の時期以外ならお寺から車で十分で着く滝桜だが、開花すると時には2時間以上もかかる。最近は殆(ほと)んど行かなかった私も、あの年は久しぶりに見に行ったものだ。
前年まで30万人以上いた観桜客は、その年は激減したものの、翌年には21万人まで回復した。一昨年も昨年も22、3万人と横ばいだったから、5年目の今年の数字が気になるのである。
今年は思い切って、私も18日の晩に出かけてみた。盛りも過ぎたし、なんとか行けると思ったのだが、渋滞の列があまりに動かないため、途中で引き返した。嬉(うれ)しいような、悔しいような、複雑な気分ではあったが、戻って女房と盃を傾けたのである。
さまざまの事おもひ出す桜かな
これは芭蕉が、貞享5年(元禄元年、1688年)に故郷伊賀上野で詠んだ句である。芭蕉が凄(すご)いと思うのは、俳句が半分は鑑賞者の思いで成り立つことを、よく承知していることだろう。眼前の桜はどんな桜でもいい。そして「さまざまの事」は、あらゆる思いを受けとめて、桜と共に咲いて散る。
そういえば今年は、立ち入りが正式に認められた富岡町の「夜ノ森桜」の花見に誘われたが、行けなかった。通常芭蕉の句は、桜が眼前の景、さまざまの事は心中の出来事と解説されるのだが、今や「夜ノ森桜」のように、桜が心中の景、さまざまの事が身の周りの現実、という見方もできるに違いない。いずれにせよ、これは俳句の王道とも言うべき名句である。
2015/04/26 福島民報