4月16日深夜、熊本で「本震」があったとき、私はすでに布団の中だった。翌朝、新聞で大変な事態が起こったことは知ったのだが、依然として私はそこに注意を集中できずにいた。
父が亡くなり、その本葬が4月18日であったため、17日には手伝いの和尚たちが大勢到着する。準備に抜かりはないか、そのことのほうが気になっていた。
夕方、八百屋さんに頼んであった祭壇用の果物が届いた。見ると今どきスイカで、熊本産とあった。しかしその時は、熊本産のスイカであることに思いは広がらず、むしろ父がスイカを食べる様子が甦(よみがえ)った。父の場合、スイカに塩を振るのは決まっていて、それは父の癖というより時代の流行とも言うべきものだろう。今では信じられないだろうが、トマトには砂糖、イチゴにはスキムミルクをたっぷり掛けて食べた時代があったのである。
熊本や大分で大勢の人々が避難所に駆け込み、余震に怯(おび)えている頃、私は父の葬儀の渦中にいた。前日の雨が止(や)み、風は少々あったものの、とりあえず晴れたことを葬儀のために喜んでいた。一瞬、熊本の地震の後の大雨を想(おも)った記憶はあるが、たぶんさほど長い時間ではなかったはずである。
葬儀が始まると、自分の動きと円滑な進行を思って頭はいっぱいになった。ただ円覚寺の横田南嶺老師の香語だけが耳底まで届いた。「故山(こざん)に帰って教職に就き、福聚に住して宗綱(しゅうこう)を挙ぐ。能(よ)く和顔愛語を以て檀信の衆を度し、常に花を吟じ月を詠じては、三春の里を愛す」
事前に伝えてあった父の足跡が見事に読み込まれた香語だった。和歌を愛し、写真を好んだ父の姿が、若い頃まで見はるかせるような気がした。そして最後の一句が更(さら)に胸に沁(し)みる。「鳥啼(な)いて人見えず、花落ちて木猶香(きなおかんば)し」どこかから父の声とも思える鳥の声がする。父はすでにいないというのに、そこにはまだ父の気配が充ち満ちている。老師は「伝芳」と書いた色紙を下さったが、そんな余香を保つことこそが「伝芳」なのだろう。
私の思いが熊本地震に戻ってきたのは、申し訳ないけれど、その翌々日のことだった。タイミングと言っては済まない気がするのだが、たしかに箇々の状況によって体験は千差を産む。
その後、大分県の親しい和尚の寺の被災情報が入った。聞けば14日の「前震」で本堂・庫裡に罅(ひび)が入って鐘楼が傾き、しかもその晩に病床にあった父上が亡くなったという。これもタイミングとかご縁と言われる問題だが、ご縁に善し悪(あ)しはないものと今は思っておきたい。彼はきっとこの難局を乗り越え、やがて剛胆に笑うはずなのだ。
2016/05/08 福島民報