『新約聖書』マタイによる福音書第七章十二節には、「己の欲するところを人に施せ(Do as you would be done to)」とある。一方、『論語』には2カ所、顔淵篇(がんえんへん)と衛霊公篇(えいれいこうへん)に「己の欲せざるところを人に施すなかれ」とある。どちらが行動原理として望ましいのか、高校時代にはずいぶん悩んだものだった。
仏教に「不害の説法」があることを知ったのは、確か大学時代だったと思う。熱心なお釈迦(しゃか)さまの信者だったパセナディ王と王妃の話で、王妃が高殿から国中を見渡し、世の中に自分以上に愛(いと)しい存在はないと気づき、その罪深さにうろたえて夫である王に相談する。しかし王は、自分にとってもそうだと認め、自分たちの考えが異常なのではないかと疑ってお釈迦さまに相談するのである。
するとお釈迦さまは、誰にとっても自分以上に愛しい存在はないのだとそのまま認め、だからこそ相手が自分を愛おしむのを害してはならないと仰(おっしゃ)った。三者三様ではあるが、どちらかといえば西洋は「良いこと推進派」、東洋は「迷惑抑制派」に分けることも可能だろう。
背景には、個々の欲求はだいたい似たようなものと見るか、全く違うことを前提にするか、その違いがあるように思う。
良いこと推進派は、だいたい似たような欲求だと見做(みな)し、一方ではボランティアリズムを発達させた。しかし世界の警察を任じ、あちこちの紛争に正義をかざして介入するアメリカの理屈も、概(おおむ)ねこれである。ドイツは「己の欲せざる所」を人に施してしまったというナチズムへの反省から賠償金も払いつづけ、難民も受け入れているが、ヒットラー自身はおそらく「己の欲するところを人に施す」つもりだったのではないか。最近の相模原の施設での殺人事件なども、犯人に潜む心理は「己の欲するところ」を皆も欲しているとの勘違いだろう。
どうも良いこと推進派は、勘違いによって恐ろしいことを引き起こしかねないようだ。だから仏教では、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)でも「諸悪を作すこと莫(なか)れ」を冒頭に置き、次に「衆(おお)くの善」を勧めはするが、その場合も「行ない奉れ」という慎重さを求めるのである。
国や宗教による道徳観の違いを感じ、学生のときには悩んだわけだが、今や新聞紙上には「己の欲せざるところを人に施す」話ばかりである。南沙諸島での中国の振る舞い、北朝鮮からの弾道ミサイル着弾、道徳も「仁」も「恕(じょ)」もあったもんじゃない。
古代、崇高なまでに発達した東洋の人生哲学は、今や「背に腹は代えられない」という独善的な理由で地に落ち、泥にまみれつつある。
「人の振り見て我が振り直せ(Learn wisdom by faults of others.)」は洋の東西を問わず語られる真理だが、日本はforceやmoneyでなく、なんとかwisdomを目指してほしい。そんな意見は時代錯誤かと、一瞬でも疑うことが寂しい。
2016/09/11 福島民報