イスラム社会の存在感がなんとなく増大している。しかも日本人には、ムスリム(イスラム教徒)についての知識が少ないから、IS(イスラム国)との区別もつかず、ただ怯えを増大させているかに思える。
イスラム社会といえば、すぐに中東を思い浮かべるかもしれないが、人口的にはインドネシアが最大である。これを追い抜く勢いなのがパキスタン。日本にも相当数のイスラム教徒が働いている。
彼らが就労中の日本で亡くなると、とても困ったことになる。ムスリムは教義上、決して火葬を容認しないからである。むろん本国まで遺体を空輸する金銭的余裕はない。ならばどうしているのか、というと、あるお寺が土葬で受け容れ、埋葬に協力しているのである。
存在感が増している、と申し上げたのは、むろんそのような非常事態のことではない。何より彼らの社会は少子化ではなく、しかも資本主義ではない。アジアのイスラム教国は比較的資本主義への親和性が高いが、それでも効率や利益を優先する資本主義とは一線を劃す。一日五回の礼拝も断食月(ラマダーン)の習慣も、どう考えても生産の妨げなはずだし、銀行も利子をとることはできない。そんな社会の存在感が増しているのは、現在の市場原理主義とも言うべき西側社会の在り方が、あまりに破綻しているからではないか……。
シャルリエブドへのイスラム過激派によるテロ事件は、イスラム社会が「表現の自由」のない非民主主義社会であるとも思わせた。具象を描いたり偶像を作ることは、アッラーの神の創造行為を真似ることだから嚴に禁じられている。しかしだからこそ彼らは抽象模様のアラベスクを産みだし、数学においても幾何学を発達させた。それは一連なりのことで、いいとこ取りするわけにはいかないのである。
私が申し上げたいのは結局、人が幸せに生きるには、日本のような民主主義、資本主義、政教分離の社会だけが究極のスタイルとは限らないということだ。いや、むしろそのような社会であるアメリカや韓国などが恐ろしい形で行き詰まっているから、ムスリムの存在感が増しているのではないか。各地で頻発する国家間の軋轢についても、彼らにはカリフ制という国家横断的な統合システムが構想されている。同じアッラーの神を信じるならば、国境は無意味になるのだ。
日本人に今更イスラム教になろうと申し上げているのではない。ただ、全く別なシステムの社会として、虚心に見つめてはどうかと申し上げたいのだ。虚心にというのは、アメリカのように宿業を抱えた国を通さずに、ということだが、これは無理難題か……。
オリエント(現在の中東)研究で知られる三笠宮崇仁さまが百歳で亡くなられた。学生時代「オリエント研究会」に属し、殿下にイスラム社会のことをあれこれ質問した日々が懐かしい。
2016/11/13 福島民報