いつから人々は、なにかを嫌うことを権利として認めるようになったのだろう。しかも私的な場面ではなく、公の場での話である。
思うにそれは「嫌煙権」という言葉からではなかったか。
好きとか嫌いというのは価値判断というより情緒、感情であり、タバコという嗜好(しこう)品については妥当な態度と言える。しかしその下に「権利」とついたことで情緒や感情であることが忘れられたのではないだろうか。今や喫煙は犯罪の如(ごと)く、場所によっては取り締まりの対象である。
この同じ流れのなかで「嫌犬権」も出てきた。「私は犬など嫌いだから、この辺で散歩などさせないでほしい」。そう思う人は確かに昔からいたのだと思うが、これまではそれを「権利」として主張することもなく、別な散歩ルートを探したりしていたのではないだろうか。ところが「嫌煙権」に力を得たのか、彼らはその権利を声高に主張しはじめた。声高な主張はなんとなく通りやすいようで、地域によっては犬の散歩を規制するところも現れたのである。
お寺の除夜の鐘がうるさいと主張する人々も最近は出始めている。毎年200人から300人ほどが集まっていたという東京のお寺で、近所の3人の人が「うるさくて迷惑」だと訴えたのである。裁判所はお寺に、防音壁鐘を囲むよう勧告したらしいが、打ってみたら鼓膜が割れそうな衝撃。あり得ない対策だとわかった。そこでお寺は大晦日(みそか)の午後1時から打つ「除夕の鐘」に変えたそうだ。
一部の人々の嫌う権利が、伝統的な行事まで変えてしまう。これが続くといったいこの国はどうなってしまうのだろう? そんな不安を感じていたら、今度はアメリカの大統領が同じことをやり始めた。
ご存じドナルド・トランプ氏だが、彼の言葉には選挙期間中から「嫌う権利」の主張が溢(あふ)れていた。選挙相手のヒラリー氏には無論だが、最近は米国外に工場を造る会社にも「嫌だ」と言い、高関税をかけるぞと脅し、国内の雇用増大を第一に目指すという。
アメリカはこれまで「世界の警察官」と言われたほど正義や公正に気遣っていた。それがグローバル・スタンダードになっては堪(たま)らないが、少なくともこれまではそれだけ「公」に配慮する国だったはずである。
ところが今度は、「あれが欲しい」と駄々をこね、しまいには処(ところ)かまわず大声をあげる幼児の如し。しかも巨大な権力を得た政治的幼児は、自身を囲む権力網に親族をどんどん登用し、どんな重要なことでもSNSやツイッターでつぶやく。1人の人間のヘイトや「つぶやき」が、世界を翻弄(ほんろう)しはじめたのである。
もともとは「嫌う権利」を認めたことでヘイト・スピーチも幅をきかせ、とうとうここまで来てしまった気がする。むろん誰にでも好き嫌いはあるが、それは少なくとも政治的権利ではないはずである。
2017/01/22 福島民報