通信網の発達により、地理的な距離が人間どうしの距離を意味しなくなってきた。遠くに住んでいても、ネットでの通信があるから親密な関係が保てると思いがちである。
しかし我々の頭には、やはり物理的な距離の遠近がどこかに意識されている。NTTは、ようやく距離による料金加算を止めるというが、これまでずっと遠ければ高いという原則を通用させてきた。じつのところもうかなり以前から、隣の家にかけるにも海外通話でも衛星を仲介させており、実質的な電話料金は変わらなかったのである。
物理的な距離の近さ、その大切さを自覚したのは、やはり東日本大震災のときだ。我が三春町は、放射能雲(プルーン)の動きを予想するため町はずれに吹き流しを立て、タイミングを見て水道水源からの取水をとめ、さらには自治体として唯一、安定ヨウ素剤を四十歳未満の町民に配った。その是非はともかく、我々住民としてはかくも緊密ですばやかった町行政の動きに、ただただ敬意を表する気分なのである。
当時は避難してきた大熊町や富岡町の役場職員も三春町役場に間借りしていた。そこからの情報は確かに大きかったが、その後の連絡や配布のすばやさはいわゆる町内会との連携プレイである。
避難者へ寄付できる寝具を集めるにも、ヨウ素剤を配るにも、住民各自がそれぞれ隣近所の家族構成や生活の現状を知っていたから計画も立てやすく、実行もすばやかった。おそらく都市部ではありえない救助体制が、あのときの我が町では作られたのである。
避難所での手伝いや食材の提供なども、顔見知りの間ですぐに当番表が作られ、被災者の現場での様子を見ながら対応した。東電は即座に大量のカップ麵類を何十箱も送ってくれたが、緊急時でもそれは主食になりえなかった。顔を見ない一律の支援の限界だろうと思う。
ところで我々の脳は、長年コミュニケーションの最適化を目指して進化しつづけてきた。現状の脳こそ理想型なはずである。
たしかに脳内には遠くの細胞間を繋ぐ長いニューロンも存在している。しかしそれが増えすぎると、脳細胞のためのスペースがニューロンによって塞がれてしまう。ご近所の脳細胞どうしはニューロンを使わず直接につながり、長いニューロンは最小限に抑えたのが現在の我々の脳である。
今や買い物も銀行もネットで済む時代、隣が誰かも知らず、近所に友達がいなくてもなるほどネットの人間関係で生きていくことはできる。しかしそれは、長いニューロンに脳内の大部分を占拠された状態と同じで、いざという時には非常に脆弱な組織と云えるだろう。
震災後の体験には、インターネットのありがたさを感じる機会も確かにあったかもしれない。しかし本当の非常時、つまり大震災の直後には電話もネットも繫がらなかったではないか。 通信網の発達や進化それじたいが悪いというわけではない。ただ通信網の進歩は、どうしても人同士の直接のつながりを省かせる方向にはたらく。そのことが非常に気がかりなのだ。
死者を一人も出さなかった糸魚川大火の際は、防災無線が避難誘導のための重要な役割を果たした。三春町でも避難を促し、ヨウ素剤を配るうえで、それは不可欠な連絡手段だったと云える。防災無線は個人が勝手につながるネットとは違うが、それだけに今後重要な連絡網になっていくだろう。しかしそればかりでなく、いや、それ以上に重要だったのは、「この時間だとあの人は寝てるかもしれない」「あいつは防災無線なんか聞いてないよ」というご近所ゆえに知っていた「個人情報」ではなかっただろうか。
「個人情報」というと、今の世の中では囲い込み、隠すことにばかり躍起だが、それは本来普通にご近所とつきあえば隠しようもない事実にすぎない。脳でいえば、細胞どうしの間を潤す脳髄液のようなものではないだろうか。
日本には、古くから「人を見たら泥棒と思え」という諺がある一方、「渡る世間に鬼はなし」とも言う。臨機応変、時によってどちらも大事なのだろうが、やはりどこかに住む以上、周囲の人々とは「鬼はなし」でやっていきたいものだ。
システムとしては、「鬼ばかり」を前提にどんどんセキュリティが強められ、自主防護がますます大切になりつつあるが、ちょっと覗いてみると一番危険な「鬼」たちはネット社会の中にいるような気がする。時にはスマホから顔を上げ、青空を仰ぐつもりで近所の実物の人間に接してみては如何だろうか。
2017/03/15 地方議会人