3月16日の朝、お寺に一本の電話が入った。私をこの世に取り上げてくださった産婆さん、渡邉キヱさんが亡くなったのである。行年は103歳、みごとな大往生であった。
それは昭和31年、4月28日の夜遅くだったらしい。産婦人科の医師が父の友人でもあり、夕方から前祝いに飲み始めてしまい、いざ生まれる頃にはすでに酩酊(めいてい)していたという。諦めたお医者さんは「代行」として信頼する助産婦さんを呼んだ。それが渡邉キヱさんだったのである。計算すると、そのときキヱさんは42歳である。
思えば私の2つ下の弟は病院で生まれた。私の頃が恰度(ちょうど)自宅で産むか病院で産むかの端境期だったように思える。
逝去のお知らせに来てくれた子供さんたちによれば、キヱさんは当時自転車を押してどこへでも行ったらしい。必要な道具は自転車に積むのだが、乗るのは不得手だったため押して行ったという。たぶん私のときも、自転車を押しながら暗い夜道を上ってきたに違いない。
キヱさんは幼い頃から渡邉家に嫁いだ叔母さんの許(もと)によく行き来していた。叔母夫婦には子供がなく、やがてキヱさんは産婆さんをしていた叔母に倣い、養女のような形で地元郡山の産婆学校に通い、さらには東京日赤の産婆養成所を卒業して渡邉家に戻る。そして養女養子という形で夫を迎え、5人の子の母親となるのだが、その旦那さんは34歳で亡くなってしまう。わずか9年の結婚生活で、あとは5人の幼子を必死に育てるしかなかった。
70歳までのほぼ50年間、彼女は殆(ほとん)ど「産土(うぶすな)の神」のお手伝いをしていたと言ってもいいだろう。助産の仕事は古代ギリシャやエジプトにもあって古いが、日本では昭和23年に「産婆」から「助産婦」に改められ、その後平成14年に「助産師」と改称になった。キヱさんの活動はほぼ「産婆」と「助産婦」に限られるが、分娩(ぶんべん)の直接の介助だけでなく、母子の衣食住すべてのアドヴァイスにも心を砕き、また後継助産婦の育成にも大いに寄与したのである。
何歳のときだったかは忘れたが、私は自分の生まれた時の状況を母親に聞かされ、「母の日」に赤いカーネーションを届けたことがある。そのときのキヱさんの喜んだ顔が今でも忘れられない。
長生きだったこともあり、私の頭にはまず「鶴」の字が浮かんだ。それは夫と義母を早くに失ったキヱさんが、子育てを助けてもらった養父「松吉」さんの「松」との繋(つな)がりでもある。そして「鶴壽千歳」からの連想で、「千壽」という熟語も出てきた。取り上げた子供の数は、3千とも聞いた。何のことかと訝(いぶか)られるかもしれないが、戒名の話である。私は感謝と賞讃の思いを戒名に込め、キヱさんの肩を軽く押すようなつもりで「産土」の故郷へ送りだした。偉そうに「喝」なんて言ったけど、キヱさんありがとうございました!
2017/03/26 福島民報