結婚して数年の頃か、「言った」「言わない」という論争ほど無益なものはないと悟り、記憶を頼りに正しさを主張するのはやめにした。どちらかの記憶が間違っていることもあるが、人の記憶はもともと曖昧なものだし、時と共に変質もする。たとえば年忌法要などは、記憶の変質を積極的に願っていたりもする。死の記憶が少しでも明るい方向へ変化してほしいと、記憶の再構築を図っているのである。
記憶がそうして変化するものであるなら、記録はどうか。お釈迦(しゃか)さまは弟子たちにメモを厳禁した。なぜかといえば、メモとは人の話のごく一部、いわば自分が同意したり理解した部分だけを自分の理解したように書き留めるものであり、それは「教えを受ける」態度ではないと考えられたのである。
それなら教えはどのように伝わったのかというと、お釈迦さまが自分のために話してくださったことを「丸暗記」した。それは繰り返し唱えられ、そのたびに新たな理解を産みだすことになる。そして弟子たちの「丸暗記」した内容を総合して文字化したものがお経になり、現在まで伝わる教えになったのである。
こうして考えてみると、今のこの国で行なわれている論争は、あまりにも虚(むな)しくはないだろうか。片や「100万円を頂いた」と言い、もう一方は「渡してない」と言う。渡してないのに頂いたと感謝されるならこれほど奇特で麗しい話もないはずだが、政治の世界に宗教的な理屈を持ち込んでも仕方なさそうだ。
また加計学園の獣医学部新設問題では、山本地方創生大臣がそれこそ正式決定前に「言った」「言わない」で問題になっている。この場合は公人の言葉だから記録もあるわけだが、それぞれが取り上げた記録も食い違っているからややこしい。やはり記憶も記録も、恣意(しい)的な変質を含んだものだということが痛感される。
放っておいても変質し、食い違うのが記憶や記録だが、最近はそこに「フェイク」と呼ばれる嘘が混じる。「正直」で売ったワシントン大統領の国は、今や嘘でも恥じずにつぶやく国に変わった。ずっと彼(か)の国追随で来た日本にも、その風は間違いなく吹いているのだろう。
公の場でもそうなのだからいわんや密室をや。「このハゲーッ」という車中での女性議員様の叫び声が甦(よみがえ)る。ああなると「言ってない」とは言えない点ではすっきりしている。しかし「言った」「言わない」論争を終結させるためとはいえ、あの秘書が行なったような「録音」や「隠し撮り」が今後は流行(はや)るのだろうか。「テロ等準備罪」は間違いなくその道を拓(ひら)くだろう。
私にとって書くことは不毛な論争をしないための最善の方法でもある。書いたことは書かなかったとは言えない。しかしこれとて、部分的に抜き出されれば全く別物になるのはご承知のとおりである。
2017/07/30 福島民報