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「両行」とこころのレジリエンス

 この国の諺(ことわざ)を眺めると、対立する意味合いの諺が必ずと言っていいほどあることに気づく。たとえば「善は急げ」と「急がば廻れ」、「嘘も方便」と「嘘つきは泥棒の始まり」、「一石二鳥」と「虻蜂取らず」、「大は小を兼ねる」と「山椒は小粒でピリリと辛い」、「栴檀は双葉よりも芳し」と「大器晩成」など、キリがないからこの辺にしておくが、要するに古人は我々に両極端の考え方を両方踏まえたうえで、現実的な判断は直観で決めよ、と教えているかに思える。
 これは正に仏教の「中道」で、儒教の「中庸」とは全く違う。「中庸」はとにかく極端に近づかないこと。一方の「中道」は両極端を知ったうえでないと歩めない道だ。両極端の双方を肯定する考え方は「両行」といい、中国の思想書『荘子』に由来するが、禅は大いにこの考え方を取り込み、二元論を超えようとした。日本人の寛容さにも、この両行は深く関係しているような気がする。
 こうした日本の状況について、アメリカの人類学者ルース・ベネディクト女史は『菊と刀』を書き、矛盾(conflict)だらけだと指摘した。『菊と刀』は、手間暇かけて菊を育てる優しい人々が、なにゆえそれを一刀両断できる刀にも敬意を表するのか、その矛盾を表現した素晴らしいタイトルの本ではあるが、「両行」という価値観も知らず、禅も知らなかった彼女には矛盾としか見えなかった。失礼だがタイトル以上の秀逸さは本文には感じられない。
 諺に限らず、この国にはいろいろなレベルでの「両行」が見られるのでこの際触れておこう。たとえば言葉も真(ま)名(な)(漢字)と仮名の両行、表意絵画文字と表音文字の併用である。権力も武家と公家が六百年も両行した。ちなみに西欧での騎士は貴族の子弟なので双方とも同じ家、権力としては日本と違って一本なのだとご承知おきいただきたい。
 またワビ・サビが流行れば伊達・婆娑羅が登場し、庵の文化が栄える一方で城郭建築なども生まれた。どうも我々の社会では、一つの価値観が波及するとそれに対立する考え方が必ず芽生え、伸張して対抗する。たとえば最も守るべき伝統の多い京都に、革新の勢力が力をもつのも同じような現象だろう。伝統の縛りが最もきつい京都だからこそ、伝統を破ろうとする力も自然に涵養されるのである。
 一本化しないという拘りは地理的にも見られる。東は正月でも角餅だが西は丸餅だし、貨幣は東が金で西は銀に準拠する。およそフォッサマグナあたりで仕切り線が入るようだが、自殺の仕方も東は刃物、西は入水した。東西で別な「おととい」と「おとつい」という言い方も温存されているし、エスカレーターでの立ち位置まで東(名古屋も含む)は左だし、大阪は右になる。電気も50Hzと60Hzに分け続けているし、もうこうなると意志的としか思えない。一本化したほうが効率もよく、わかりやすいだろうに、敢えて両行させているのは何故なのか。
 おそらくそれは、対立したり対になるセットが、生産性を担うと信じられているからではないだろうか。
 『古事記』によれば、この国に最初に現れた三神とそれに続く二神までは姿を見せず、しかも「ひとりで」子供が作れる特別な神(ことあまつかみ)とされる。「ひとりで」に発生する能力を古代は「ケ」と呼んで珍重したが、その能力が枯れることを「ケ枯れ」と呼んで嫌ったのである。そして最初の五神に続くのがイザナギとイザナミのセットで、これ以降は全て対になって生産力を発揮する。だから人間も、とにかく形のうえでも心のほうも、対を成せば(相当違ったものを抱え込めば)生産性が保てると信じられたのだろう。
 日本人にとっての「両行」やその起源について、以上ざっと概観してみたが、むろんそれが日本人の心の在り方に深く関係していると思うからである。
 二十世紀になって、多くの日本人は「個性(personality)」という外来の妖怪に取り憑かれたかに思える。「個性」は常に「伸ばす」と言われるように、神の欠片としての善性のみを意味する。ユングは悪魔性を加えなければ不備だと指摘したが、たしかに「個性」は人間の心の表現としては狭すぎた。
 もともと「八百万の神」を祀る国に、一神教の神の欠片が飛来したのである。八百万の中には「汚れの神」だっていたわけだが、「個性」文化の中ではむろんそんなものは認められない。最初に挙げた諺の例でいえば、「善は急げ」や「一石二鳥」、「栴檀は双葉よりも芳し」などが重視され、経済性や効率の観点から、遅い者や慎重すぎる者、おっとりした優柔不断に見える者などは容赦なく切り捨てられていく。
 ネオリベラリズムと呼ばれる政治にも問題がある。要するにそれは、平等をめざすべき政治が、自由競争に任す経済に従属するということだ。当然そこでは「効率」や市場価値が重視される。最近の政治家は口を開けば「スピード感をもって」などと言うが、つまりは早く、効率よく、売れる人材になれと、繰り返し言われているようなものだ。
 嘘についてはトランプ氏の登場により、完全に「嘘も方便」側に軍配が上がった形だろう。最近は日本でも検査のごまかしや水増し、記録の改竄などが起こり、完全に妖怪に乗っ取られた病相を呈している。
 しかし問題なのは、そうした悪しき適応例よりも、むしろ現状の価値観では認められず、適応できない自分への対処である。繊細でおっとりで、莫迦正直で騙されやすいような若者は、そんな自分をどうやって肯定するのか、ということだ。
 「出来心」が当たり前とされた時代には、人間がそれほど一貫した存在とは思われていなかった。しかしそれでも解釈が難しい「その人らしくない」部分については、「ひだる神」や「塗り壁」など、妖怪が憑依したものと解釈された。つまり、憑依さえ解ければ元に戻ると信じて待つわけだから、長い目で人を観ようという愛情さえ感じる。今やなんとしてでも「個性」を中心にまとめなくてはならず、一度刑事犯罪でも犯すと、更正施設から戻っても振り出しにさえ戻れない。変わらぬ個性は良かれ悪しかれ人間の烙印として作用しはじめたのである。
 抑うつを生む二大認知は、「自分へのダメ出し」と「過度の悲観」だと言われるが、そうならないためには少なくとも心中では自分をダメと思わず、悲観しないでいられるだけの根拠が要る。無意識だとしても、両極端の諺が双方とも有効であるような社会が求められているのである。
 社会全体が、スピードと効率と、売れる価値ばかりに染まっていく。それは当然優生思想を産む土壌にもなっていく。障碍のある人々への眼差しに近頃怖ろしいほど冷たいものを感じるのは、私だけではないはずである。個人のなかでも「個性」とは呼べず、自分でも丸ごと肯定しかねる自己の欠片が何かのきっかけで「解離」を引き起こす。そういうことなのではないだろうか。
 解離性同一性障害は、昔は「個性」教育に秀でたアメリカやフランスの風土病とさえ思われていたようだが、要はキリスト教じたいは不振でも、その落とし子としての「個性」がそれだけ広く普及し、そこに収まらないものが跋扈しはじめたということなのだろう。
 唐代の禅僧馬祖道一(ばそどういつ)は「即心是仏」と言った。「ああ、今のままで仏だったのだ」と、気づけばいいということだ。これは「知足」という言葉にもなる。すでに自分は十全な命を生きている、他に何が要るか、という矜恃あふれる宣言でもある。
 しかしこれとて、価値観の両行あってこそそう思えるのではないだろうか。体が小さくとも、計算が苦手でも、動作が遅くともそんな自分を肯定できる社会環境であればこそ、「悉皆成仏」も可能になる。
 もともと東洋には、ハンディキャップという考え方がなかった。私見では、これもまた『荘子』の影響と思えるのだが、おそらく応帝王篇の「渾沌」の物語のせいだ。渾沌には目鼻口耳など七つの穴がなく、そのことを憐れんだ二人の王が毎日一つずつ穴を開けたらしい。ところが全部の穴が揃ったら渾沌は死んでしまった。西欧では神の似姿がスタンダードとされ、欠けた部分のある者はハンディキャップトとされるが、東洋では全く違い、正統は認められず、むしろ何かが欠けていることに生産性が期待された。「聡明さ」は西欧的には素晴らしい個性だが、『荘子』では「聡(耳ざとさ)」や「明(目ざとさ)」そのものが否定される。だからたとえば目が不自由な人にも「目明きには見えないものが見える」と想い、簡単には同情せずむしろ特別な敬意を示した。ボランティアが東洋で生まれてこなかったのは、ハンディキャップトじたいを認定しなかったから当然なのである。
 最近、国会議員がLGBTについて「生産性がない」と口にして批判を浴びたが、あまりに自明視されているスタンダード意識に呆れた。「生産性」が子作り限定で使われていたことにも驚いた。
 日本人が求めた生産性は、最終的には「こころの生産性」である。こころの生産性とは、そのときその場で、マニュアルなどに頼らずに適宜な判断をすることである。地蔵はもともと大地の生産性のシンボルだったが、やがてこの「こころの生産性」も担当するようになる。インドではほとんど絶滅し、中国でもあまり殖えなかった地蔵菩薩が、日本では雨後のタケノコのように増殖した。しかも立てられたのは此の世とあの世の境、領域と異界との境、いわば常識と非常識との「あわい」である。そこがこころを最も活溌にし、レジリエンスも高まることを古人はよく知っていたのだろう。
 AIの普及で最も危惧するのは、人間が自らの「こころの生産性」を信じなくなることだ。どんなデータをどれほど集積し分析しようが、それは底の知れた過去からの抽出である。我々人間は、底知れぬ過去としての阿頼耶識(あらやしき・集合的無意識)を内蔵しているからこそ、直観としての「こころの生産性」を信じることができる。たしかに直観が発動するにはある種の身心条件が必要だったりはするが、感情もなく演算として導かれた一定レベルの答えに驚く必要はない。どだいAIは「disorder」は扱えない。また人に個別に向き合うというその個別の意味も、たぶんAIには理解できないはずである。
 日本人は元来こころそのものをあまり相手にせず、所作や行為を繰り返すことでそこに宿るこころも身につけた。武道も芸能もそうした稽古の体系である。そして現実の生活では、無数の「からだの記憶」から何かが直観的に選ばれ、無意識になされることに美を見いだした。しかしそうした伝統が廃れつつある今、両行のもう一方を補強し、対立価値を看取りやすくすることは精神衛生上も喫緊の要事であろう。
 具体的には、たとえばリニアを走らせるなら駕籠を復活させるとか、小学生ではパソコンや英語を学ばない選択肢を設けるとか、とにかく世の価値観の偏りが、多くの disorder を産みだす一因であることにもっと自覚的であってほしいと思う。
 両行は、個人のこころのレジリエンスを高めるだけでなく、おそらく対外的には慈悲や智慧として発現する。最近の私はそんなふうに考えている。
 「精神療法」という専門誌に、このような原稿でいいのかと危惧する気持ちは非常に強くあるが、こうした異物も「両行」には役立つかもしれず、腹を括って提出することにした。

2018/12/05 精神療法 第44巻6号(金剛出版)

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タグ: 両行, 仏教, 精神療法