どうしても年の瀬になると、この一年を振り返ってしまう。なんといっても令和への改元が最大の画期だが、「令和」は大正新修大蔵経に百五十九カ所も登場する。しかもそのうち九十二カ所が「令和合」、つまり和合せしむる意味である。
「令和」発案者とされる中西進先生は、自身の発案とは明言しないものの、「令和」は聖徳太子の十七条憲法を憶(おも)いだすとおっしゃった。つまり「和を以て貴しと為す」。これはおそらく当時最悪だった朝鮮半島との関係や、蘇我・物部両氏の対立を想(おも)った太子の決意だろう。
ならば令和とは、韓国との仲直りを願っての提案ではなかったか。だとすればGSOMIA(軍事情報包括保護協定)破棄は一応避け得たものの、まだまだ問題は山積している。長い歴史のなかでの両国の大量の人的交流を勘案すれば、これは殆(ほと)んど同族嫌悪にも思える。それだけに令和流の画期的和解法が求められるのである。
和解といえば、台風十九号の被害のあとにもつくづく思った。これはもう、自然に敵対して封じ込める治水法では無理ではないか、と。
もともとこの国の治水は、武田信玄の信玄堤に代表されるように、ある水位を超えた水は堤防外へ逃がし、流域全体で受けとめる「流域治水」だった。堤防の切れ目の外には湿地帯や水田、遊水池があった。いわば小さく負けて大敗を避けるのである。
しかし明治以降、オランダ人ヨハネス・デ・レーケの指導で「連続堤防」の考え方に転換した。水はすべて敵として川に封じ込め、海まで運び出そうというのである。海抜以下の土地が国土の四分の一もあるオランダでは、それは選択の余地のない方法だったに違いない。またヨーロッパのゆるやかな川には有効な方法なのだろう。しかしレーケ自身も危惧していたように、日本の川は急流だし時に滝のように暴れる。最近はあらゆる水をU字溝で川に流入させるから尚更(なおさら)である。
もとより日本は、自然に脅威を感じつつもその恵みをありがたく享受してきた。自然は決して敵ではなく、むしろ信仰の対象でさえあった。しかしいつのまにかこの国にも、欧米風の、敵対し、封じ込める思考が根づいてしまったのではないだろうか。
対韓国、対自然に、共に感じられるこの覇権主義が、先日来日したローマ教皇によってばっさり否定されたのだと思う。フランシスコ教皇は、覇権の拮抗(きっこう)、つまり「核の傘」による平和を完全に否定し、核兵器のない世界を実現することは可能であり、必要不可欠だと述べた。「戦争のための兵器を製造しながら、どうして平和について話せるのか」とも。
国文学者も、宗教者も、令和のシンプルで斬新な和解法を求めてやまない。あとは覇権を握る人々がどう動くのか、だけだが、この国の覇権者は年の瀬のツケ払いに追われてそれどころではないだろうか。
2019/12/08 福島民報