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特集 縁起を担げ

さすらいの「縁起」

 どうやらここで私に期待されている役割は、本来の「縁起」の意味を提示することらしい。つまり「良い」とか「悪い」とか、挙げ句は「担」がれたりもする縁起だが、そもそも縁起とはいったい何なのか、そのことをご期待に沿うべく書いてみたい。
 これは仏教の骨格ともいえる重要な世界認識であり、お釈迦さまが菩提樹の下で悟った根本原理とも言われるが、あまりにも難しいため人に話すべきかどうかとことん迷ったという。言い訳めいて聞こえるかもしれないが、まずはそのことを申し上げておきたい。
 ざっくり辞書的に申し上げてしまえば、縁起とは「世の中のすべての物事は、因縁によって生じ、因縁によって滅する」ということだ。つまり全ては単独で自立的に存在するのではない、ということだろう。
 「縁起」は「因縁生起(いんねんしょうき)」の略とも言われる。「因縁」とは原因と条件、これは無数にあって、全てを知ることはおそらく不可能だ。
 通常、縁起を示す定型句としてお釈迦さまが使ったとされるのが次の言葉である。即ち「此れ有るとき、彼れ有り、此れ生ずるに依りて、彼れ生ず」。これは生ずる場面のみの記述だが、同じように「無い・滅する」についても続く。特筆すべきは、後半は「此れ生ずるに依りて」つまりそれが原因で、結果として「彼れ生ず」となるから原因と結果として受け取れるのだが、前半部分は「此れ有るとき」同時に「彼れ有る」ということである。
 因果(異時)は現在の科学の前提でもあるが、同時についてはユングが共時性を提唱し、最近では同期と呼び変えられてホタルの明滅やコオロギのすだきなどが研究されている。しかし同時に起こる以上、因果的な説明はできない。敢えて説明しようとすれば江崎玲於奈博士の「トンネル効果」まで持ちだすしかなくなってくるが、お釈迦さまが「縁」としてそうした関係性まで射程に入れていたことは間違いないと思えるのである。
 縁起は時間的な変化と空間的な広がりのなかで連続的に起きている。それゆえ常に「諸行無常」(全ては常に変化しつづけ)「諸法無我」(すべては関係性の所産であること)を含んでいる。
 こうした複雑な相互依存性(相依性)が無常に変化しながら我々の周囲に現象しているというのだが、ご理解いただけるだろうか。
 人間は、どうしても原因を絞り込みたい。たとえば霊能者などに苦境について相談すると、原因は背後霊だからそれを除霊すればいいなどと言われる。これはお釈迦さまが嫌いな「単因論」なのだが、人は原因が一つに絞られたことをむしろ喜ぶ。理解したつもりになって喜ぶと状況もやや好転したりするから尚更厄介なのである。
 お釈迦さまが梵天に勧められ、とうとう縁起を説く気持ちになったのは、おそらくそうした呪術や迷信に瞞されない生き方を喚起したかったのではないか。またもう一つ、縁起を知らずに世界を眺めると、個々の存在が孤立的なものとして理解されてしまうことも大きい。きっとお釈迦さまはそのことを最も危惧されたのではないだろうか。
 『華厳経』に説かれる、非常に美しく、また解りやすい縁起のビジュアルモデルをご紹介しよう。
 帝釈天の住む宮殿の天井には、インダラ網と呼ばれる美しい網があるらしい。網を構成する無数の結び目には宝玉が取り付けられ、一つの宝玉には他の無数の宝玉の煌めきが映り、たとえば網の一部が動くだけで無数の煌めきのめくるめく連鎖が全ての宝玉に映しだされる。『華厳経』では「重々無尽」と説かれるのだが、そのように無限の関係性が我々の今を広大な網の如く織り成し、それは一時も止まらず変化しつづけているというのである。
 イメージは感じていただけたと思うが、膨大であるうえ変化しつづける現象だからしっかりとは捕まえようもない。
 だからきっと、日本人は本来の「縁起」の理解は諦め、「縁起」は担いでしまうことにしたのだろう。自分の都合だけで見た「縁起がいい」とか「悪い」という見方も、「みんなそうだし、仕方ないね」と容認してしまったに違いない。いや、日本人ばかりじゃない。御札やお守りもじつは中国道教からの将来物。今や出家を勧めるはずの仏教までが「家内安全」を祈るのだから説明もつかない。
 多くの仏教語が長い歴史と距離をさすらいながら意味を変質させ、それでも生き残ってきた。今はむしろ「縁起」という言葉が生き残っただけでも喜んでおくべきなのだろう。
 願わくは本来の意味を少しでも理解し、そのうえで担ぐなら担いでほしいと、切に思う次第である。

2020/1/1 UCカード会員誌 てんとう虫

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タグ: 仏教, 禅語・仏教語, 縁起