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特集 原発と民主社会

あはれから無常への9年 危機を憶いださねばならない理由

 震災から9年が経とうとする今、あらためて震災以後の時間を振り返ってみたい。思えばこの火山列島に住む人々は、長い歴史のなかで多くの災害に遭ってきた。『方丈記』にも感じることだが、災害の多い境遇だからこそ培われた日本人ならではの心性があるのではないか。私は特に震災後、そう思うようになったのである。
 単純化して申し上げれば、それは「忘れる」ことと「忘れ(られ)ない」ことの両立、正確に言うと「両行」である。
 仏教の「諸行無常」は日本人の心に深く浸透し、世界の在りようを表す原理としてだけでなく、自らも「無常」であろうという行動原理にもなっていった。それこそ積極的に「忘れよう」、そして世界の変化に応じて我々も変化しようという心の方向性である。
 一方、「忘れ(られ)ない」心は、平安時代に「あはれ」という言葉に結実した。「あはれ」を辞書で引いていただくと解るはずだが、あまりにも意味が多岐に亘る。それはおそらく、「あはれ」の基本は「ディープ・インパクト(忘れられない)」であり、感情の方向性は問わないからだ。「うれしい」「かなしい」のほかに「かわいそう」「もったいない」、また「慈悲」の意味まである。
 しかしいずれにせよ、「無常(忘れよう)」と「あはれ(忘れられない)」は常に日本人のなかで「両行」してきた。「両行」とは『荘子』の用語だが、英訳すれば「デュアル・スタンダード」。どちらか一方を選ぶわけにはいかないのである。
 こうして長すぎる前置きを書いたのは、世の中に「忘れない(で)」という言説ばかりが目立つからだ。アーカイヴはむろん大切だが、個人の心情はそれだけでは救いきれないことをまずご理解いただきたい。

死亡届を出さない理由

 以上を前提に、私にとっての「あはれ」なる事どもをまずは書いてみたい。何より「あはれ」なのは、東日本大震災では行方不明者が今なお2500人以上いるということである。遺骨や本人の遺留品などが見つからなくとも、今回は「死亡届」を提出することができた(今もできる)。そして死者が世帯主ならば500万円、それ以外なら250万円の弔慰金が国から支給される。つまりどう考えても生きているとは思えない家族の死亡届を出さず、行方不明者のままにしてあるというのは、弔慰金を受け取りたくないという明確な意思表示なのだ。そこには、自分が生き残ったことに何らかの負い目を感じる身内の心情と、その死をより「忘れ得ない」記憶にしようとする気概のようなものを、私は感じる。1人の行方不明者の周囲にそうしようと決めた親族がたとえば4人いたとしても、合計では約1万人になる。そのことを私は今回の震災の最大の特徴として、折に触れて憶(おも)いだす。そして被災地で多く見られた「幽霊」現象も、このことに少なからず関係しているように思えるのだ。原発に直接は関係ないが、今回の震災全体で最も「あはれ」なこととして指摘しておきたい。

逃げ惑った人々

 また双葉病院の入院患者たちも「いとあはれ」だった。後になれば飯舘村の特養のように、そのままそこにいる、という選択肢もあったことに気づかされたが、当時の原発事故への恐怖心を考えれば単純にスタッフたちを批判はできない。特に見えない・匂わない・聞こえない、という感知できない放射能への恐怖は、おそらく何度事故が起きても同じような顛末になるのではないだろうか。
 私が住職するお寺の檀家さんだけでも、2011年4月には4人が自殺、5月にも2人が加わった。普段から鬱ぎみだったり、安定剤を飲んでいたりするようなケースが多かったのは確かだが、自らの感覚に頼れないということがどれほど人をおびやかすものか、痛感したものだ。
 放射能から逃げ惑う人々の様子は、まさに「あはれ」と言うしかない。不充分な知識で「出るか残るか」を判断せざるを得ず、出た人はその後彷徨うように各地を転々としながら「出た」判断を肯定してゆき、「残った」人は残った人でその判断が間違いじゃなかったと思える材料を見つけていった。心理学では「確証バイアス」というらしいが、両者の分断が修復不可能なものになっていくのは時間の問題だった。むろん、時間が経つほど壁は厚くなっていったのである。
 こうした混乱を招いた最大の要因は、何よりICRP(国際放射線防護委員会)の基本方針により、全国の線量が一覧できなかったことだろう。体に影響のない範囲内での線量の高低は示すべきではないということのようだが、福島県民が安心を得るためにはこれが最大の障碍(しょうがい)になった。
 年間1ミリシーベルト(mSv)未満に累積線量を抑えるため、仮に1日8時間外(そと)で働くとして、毎時0・23マイクロシーベルト(μSv)という基準値を(除染のために)設けたわけだが、この数値よりも高い線量の地域は全国にいくらでもある。それどころか平均で年間1mSvを超える県も11県あるのだ(全国14万9千カ所で長瀬ランダウアが継続調査した結果)。そのことを知るだけで、福島県民の気持ちはどれだけ安寧でいられただろう。
 しかし国は、放射線量は福島県だけの問題として囲い込み、決して他の地域との比較は見せてくれなかった。大手マスコミもたとえば会津地方に比べ、他県がどれほど高い線量かを示すことはついぞなかった。それゆえ福島県だけをまとめて一括りにする差別的な見方がいつまでも生き残っていったのである。
 私は一時、全国に講演に出向くとき線量計を持参した。そして毎時0・4とか0・6μSvの地域があちこちにあることに驚き呆れた。福島県の風評被害を確実なものにしたのはこのICRPの基本方針ではないか、との思いがどうしても抜けないのである。
 もともとICRPは予防的な観点でさまざまなルールを提案している。予防的に考えれば、「閾値(しきいち)なし」、つまり少しでも低いほどいいという立場も理解できないではない。しかし現実に、我々はどこに住んでも放射能を浴びて暮らしているのであり、これ以下なら問題なしという閾値がないはずはない。何事も起きていない地域の人々には予防的観点で済むだろうが、被災地の人々にとっては閾値が年間数十mSv以下にあるとするフランスの科学・医学アカデミーのほうが余程信用できるのである。
 避難者でも特に双葉郡から各地へ出た人々は、まさに「蜘蛛の子を散らすよう」だった。行政が案内した場所以外にも全国に及び、たとえば富岡町民の場合、避難者が行ってないのは全国で徳島県だけだと住民課の職員が話していた。実際、私が講演に出かけるどんな場所にも元福島県民は居て、いま憶いだすだけでも丹波、八丈島、盛岡などが浮かぶ。なかには講師控室を訪ねてくださり、転々とさすらった苦悩を話してくれた方もいた。
 今となれば、人間に放射線への感覚器が遂にできなかったということじたい、自然に存在する程度の線量は危険ではなかった證(あかし)のようにも思える。視覚も聴覚も嗅覚も触覚も、本来的には我が身の危険を事前に察知するために発達したからである。
 ただその推測が本当だったとしても、急激な放射線量の増加がもたらすストレスの増大は避けようがなかった。放射線生物学や影響学、防護学などの専門家たちが「御用学者」と批判されて引っ込んでしまい、その後は現状の安全を保証してくれる人々が誰も出てきてくれなくなったからである。
 先日、私は田村市都路の商工会長だった方の葬儀をした。自宅が20キロ圏内にあり、一時は田村市のアパートに避難し、都路のレストランも閉じて田村市船引町に新設した。その間、商工会長として会員の牽引役も務めながらのことだから、どれほどのストレスだったかと思う。しかし本人は侠気(おとこぎ)の強い人で、3年前に食道がんが分かったときも、昨年6月に転移による再入院が決まったあとも、一切弱音を吐くことなく、まして震災と病気との関連を語ることもなかった。しかしどう考えてもこれは震災関連死だ。こうして数に入らない震災関連死者がいったいどれだけいることだろう。

福島の安心と他地域の混乱

 放射線についてもう一つ「あはれ」だったのは、2018年6月の放射線審議会の結論である。我が三春町と伊達市は、小中学校に通う児童生徒たちにガラスバッジを付けてもらい、長年に亘って実際の生活のなかでの被曝量を継続的に測ってもらった。その結果、除染の基準値として仮に決められた毎時0・23μSvはまったく基準にならず、実際は毎時1μSvちかくあっても年間被曝量は1mSvに満たないことが判った。その結果を踏まえての審議会だったはずだが、結論は「混乱を招くといけないので基準値は変更しない」。伊達市や三春町の長年の努力が無にされただけでなく、福島県民の安心というものがあまりにもないがしろにされている。またここでもICRPの防護的観点が優先されており、東京はじめ除染に関係ない地域の「混乱」を避けようとしているのである。
 せっかく実証的な数値を得たのに無視された以上、また事故が起これば同じように「混乱」することは確実だろう。被災地の人々の「混乱」を少しでも避けようと思ってくれるなら、時間がかかっても正しい数値を知らしめなければならない。民主主義を考える際にも、こうして権威者から流される情報の正しさは不可欠だろう。
 その点は、じつはICRPにも申し上げたい。今から20年以上まえ、放射線で傷ついた人間の細胞にはそのつど修復する能力があることが判ってきた。たまたまショウジョウバエの精細胞にはその修復力がなく、それを用いて放射線の増加による突然変異体の増加を確認したマラーの実験は、人間には適用できないのである。しかしICRPは無効になった「累積線量」という指針を捨てようとしなかった。1997年のセビリアでの国際会議で変更を申し入れても、「すでに各国で法律化されており、混乱を招くから」という理由で変更を拒否したのである。今も「年間累積線量」を基準にすべてが動いているのはご承知のとおりである。
 なんと申し上げるべきか、この「混乱を避けよう」という思いが混乱を却って長引かせるのではないだろうか。もしかすると民主主義にとっても、この「混乱させない」という口実がその土台を腐蝕させる大きな要因なのかもしれない。

被曝を理由に家畜を殺生

 同じく放射線関連で「あはれ」だったのは、県内で行なわれた未曾有の家畜の殺生である。チェルノブイリでは家畜をすべて殺さず移動させようとしたのに、日本では被曝理由による家畜の殺生がじつに大規模に行なわれた。豚や牛の薬殺を当初は獣医師たちに依頼したが、動物好きばかりの獣医師たちはほどなく引き受けきれなくなり、最後は役場の総務課職員などが吹き矢を使って殺したのである。白い薬品を掛けられ、ブルーシートで埋設される動物たちの姿は凄惨で「あはれ」だった。彼らは「埋葬」ではなく「埋設」されたのである。
 また20キロ圏内では動物たちを放置して逃げるしかなく、多くの牛・豚や鶏たちも餓死し、その死体は放置された。
 その後、被曝した牛たちを継続的に飼育した東大での調査から、清浄な餌と水を与えれば内部被曝は2週間ほどでなくなることが判ったが、後の祭りである。希望の牧場や「もーもーガーデンふくしま」の活動が些(いささ)かの救いではあるが、多勢に無勢と言うしかない。
 世界一動物実験が多く、また売れ残ったペットの「引き取り屋」まで横行するこの国では、家畜たちの命はさほど気にもされないのだろうか。家畜を人間のための被造物と割り切るキリスト教国よりも非道(ひど)い仕打ちを、日本人はしてしまったのではないだろうか。県内に住む畜産業の人々の中には、「息子に何を教えたらいいのか分からない」と言って廃業を決意した人も多くいる。
 またこの件の孕(はら)む最大の問題は、内部被曝についての非科学的な見方が、いつ人間に伝染するか分からないという点だ。復興構想会議でも提言したのだが、一旦被曝した牛や豚が救えないとするなら、人間はなぜ救えるのか。もしそこに「人間だから」という以外の理由が思いつかないのだとしたら、こんな恐ろしいことはない。それは必ずや差別の温床になるだろう。いや、実際「ホーシャノーうつる」という子どもたちの虐め言葉にもそれは如実に表れている。

30年後の責任者は?

 核燃料の最終処分場がないことも最悪だが、「中間貯蔵」30年という考え方にも「あはれ」を感じる。この問題については、以前これを打ち出した佐藤雄平(元)知事に直接質問したことがある。「30年後に誰も政界には残っていないことが確実ななかで、『少なくとも県外のどこか』に運びだす、などという政治的な約束が信じられるんですか?」たしかそう訊いたと記憶するが、雄平知事はシンポジウムの席上で些か慌てたように「信じるしかないですよ」と答えた。
 その後は確かに法制化もなされたが、「県外のどこか」がありえない現状に変化はない。当時はどこかアテがあったにしても、今は完全にありえないと思う。30年の起点もはっきりしない状況で淡い希望を抱くより、「永久貯蔵施設」としてもっと重厚堅固に造るべきではないだろうか。またたとえあさはかであったとしても、福島第一原発は県民の夢や希望としても機能し、悲喜交々(こもごも)を孕みながら長年運転されてきた。活計を得てきた県民も多い。むろん反対運動もあったわけだが、この重大な結果については福島県民が「縁」として受けとめないでどうするのだろう?
 「県外のどこか」という発想がすでに「あはれ」で「無責任」で「みじめ」ではないか。
 民主主義という観点から考えても、民が主であるというならその責任も民こそがとるべきではないだろうか。前の世代の仕事だ、という県民の反論も分からないではないが、それなら責任者など誰もいなくなり、まして「県外のどこか」にも居るはずはない。そして今後も我々は、自分たちの未来を自分たちで決める自由を失うのではないだろうか。

除染の惨さ

 「除染」についても申し上げておこう。まず思うのは、除染とは本当に「あはれ」で惨(むご)い作業だということである。土を、砂と粘土と腐植との適度な混合物と定義するなら、本物の土は(全地球の平均だが)1年で厚さ0・1ミリしかできない。除染した5センチの土ができるには500年かかるのである。特に有機農業などを進め、肥えた土作りに励んできた農家には痛切な決断だったに違いない。
 先ほど、除染基準の数値がいい加減だったことは申し上げたが、作業報酬の「ばらまき」とピンハネについても苦言を呈したい。
 除染作業員に対しては、国からは1人4万円以上の報酬が出ており、ほかに1日1万円の危険手当がつく。しかし知り合いの弁護士に聞くと、危険手当は殆んど支払われておらず、しかも下請けされるたびにピンハネされ、実際の労働者に渡るのは日当1万数千円。一昨年の報道にあったが、清水建設の除染下請け会社の1年間の役員報酬はなんと43億円だったという。
 「除染ゴールドラッシュ」という新たな言葉も生まれた。人口約7万人だった南相馬市には除染作業員が約1万人流入した。お陰で新しい飲み屋も出来、元からの店の雰囲気もがらりと変わったと言われるが、たぶん変化はそうした「金回り」の問題だけではないはずである。

オリンピックの虚と欺瞞

 次第に話が「あはれ」から「無常」へと移行しつつあるのを感じる。「除染」は恐らくその境界に位置するのだろう。こうして私が「あはれ」に浸っている間にも、世の中は「無常」に変化しつつある。「無常」とは「忘れよう」という方向にはたらく心のことで、意図するとしないとに関わらず、それは「あはれ」の毒消しとしてはたらく。
 もともとこの国は、江戸時代に「士農工商」という厳格な身分制度を敷き、それを維持できた国である。つらつらその理由を考えてみると、どうしても「祭」の存在が浮かぶのである。「祭」とは、神の前で誰もが平等になる期間。同じ意味で、ギャンブルにもこの国は寛容だった。つまり誰が勝つかは運次第、金も身分も関係ないとすれば、当たり籤(くじ)は神が選んだと解釈できる。つまり博打や富くじも身分制度の毒消しとして非常に有効だったのである。
 お察しのように、私が向かおうとしているのはオリンピックの話である。震災の翌年、2012年には都民でも国民でも「東京オリンピック」支持者は5割に満たなかった。ところがその翌年にはオリンピックがなぜか「復興」に結びつけられ、批判しにくい「大義名分」を纏(まと)ったせいか最終的に開催地に決定された。国民の期待もさほど高まっていない状況で、2度目の開催を熱烈に求めたのはどういうわけだろう?
 誘致のためとはいえ、「福島の状況はアンダーコントロール」には嗤(わら)ってしまったが、他にも誘致ファイルでは、「この時期の天候は晴れる日が多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる」などというウソまで書かれている。ここまで恥知らずなことができたということは、やはり誰か、「無常」なる「祭」の毒消し効果に気づいていたのだろうか。
 そうして周到に誘致された「復興オリンピック」は、さまざまな明るい話題を撒き散らしつつ、被災地をも包み込んでいった。聖火リレーはJヴィレッジから出発することが決まり、福島市ではソフトボールや野球の試合も行なわれることになった。因みに一昨年発表された聖火リレーのコンセプトは、「復興・不屈の精神」「違いを認めあう包容力」「祝祭による一体感」だそうだが、やはり祝祭による一体感のなかで、震災後に広がった格差や分裂も溶解させるつもりなのだろうか。「不屈の精神」に「復興」を加えたのはまさにとってつけたようだが、実際、各地にオリンピックの準備室や推進室、検討委員会などが矢継ぎ早に立ち上げられ、一部の役所は復興どころではなくなっている。「復興」事業の問題点を検証する時間も人も、減らされるしかないのである。

判断停止のまま「祭」

 むろん私とて、スポーツが人々を力づける側面は理解しているつもりだ。しかし今回のオリンピックはその他の要素が多すぎる。
 たとえば真夏の開催だから、冷房のための電力余裕を懸念する人も多いだろう。首都圏の電力需要の約4割は、福島と新潟の原発が支えていた。福島第一原発の廃炉決定を受け、なんとしても残りの原発(福島第二と柏崎刈羽)のどちらかは稼働させたい。福島第二原発の廃炉については何度も県議会で決議され、要望されていたわけだが、新潟県に自民寄りの花角知事政権が誕生した直後、ようやく第二原発廃炉が認められたのは象徴的だった。「まぁ柏崎刈羽があるし、福島第二は諦めてもなんとかなるか」といった判断だろうか。
 要するに為政者側は、オリンピックによって原子力発電の是非を真剣に問うことを先延ばしできたのだ。人々のなかに「とにかくオリンピックが終わってから考えましょうよ」という雰囲気が自然に醸成されていったからである。
 オリンピックの他にも、Jヴィレッジの再開、常磐線の復旧、そして福島イノベーション・コースト構想やふくしま産業賞の創設など、福島県にはその後も浮いた話が多かったように思える。バドミントンの桃田の活躍なども確かに嬉しいことではあった。
 私はべつにそのことじたいを歓迎しないわけではない。ただそうした祝「祭」的な時空のなかで、「あはれ」なる事どもが遠退き、棚上げにされたまま考えられていないことが心配なのだ。
 たとえば双葉郡の町村をはじめ、被災各行政は独立を保ってはいるが、開校した地元の小中学校に通う子どもは大熊町、双葉町ともにゼロだ(2019年度)。川俣町は中学校に3人が学ぶものの、小学校は同じくゼロ。尤も、昨年小学校に入学した子どもたちは全員が避難先で生まれた。彼ら自身の故郷は被災町村ではないのだからそれも無理はないのだが、いったいこうした行政の未来を誰がどう考えていったらいいのだろう。
 復興構想会議は1年弱で解散になったため、こうしたグランドデザインを描く組織は今やどこにもない。各行政も事情が違いすぎ、連携する可能性も極めて薄い。悲観しすぎないことは大切だが、判断停止のままで祭に興じていていいのかと、私は訝(いぶか)る。この国が祭を必要とした歴史は承知のうえで、敢えて私は申し上げたいのである。
 念入りなことに、祭はオリンピックの後にも次々準備されている。2025年には大阪万博、翌年には愛知県と名古屋市の共催による夏季アジア競技大会、また札幌は30年の冬季オリンピック・パラリンピックに立候補している。更に先日のラグビーワールドカップをまた誘致したいと言っているようだが、本気なのだろうか。
 実際には労働力が足りず、国立競技場の建設作業要員を求め、人足揚げと呼ばれる人々が福島県の除染や堤防造りの現場にも現れていた。政府は2023年度までに最大34万人の外国人労働者を受け容れると俄(にわか)に打ち出したが、このあまりに拙速な政策の背後にも「祭」の気配を感じて仕方ないのである。
 ここまで申し上げてきたのは、要するに個人の安寧のためには「無常」のはたらきは不可欠だし、忘れてやり直すことも大切だが、政治的に「忘れさせる」ようなやり方は気に入らない、ということだ。その際用いられたのが日本人を長年宥和させてきた「祭」であるだけに一段と罪深い気がするのである。

民主主義の成熟度が試される

 最後に原発と民主主義について一言申し添えておきたい。
 些か古い言葉だが、私は民主主義について「万機公論に決すべし」という定義が気に入っている。現憲法の制定プロセスにも感じることだが、どうしても日本人は「密室」で原案を練り、激しい「公論」は避けて概ね原案どおりに決めたがる。最近は情報隠滅まで起こり、「密室」での議論が完全に隠されているが、「民」の側の諦めが日本の覇権化した民主主義を容認しているとしか思えない。
 日本の民主主義の成熟度を試す最適の問題がある。「汚染水をどうするか」である。毎日170トンも増えるトリチウム入りの水を、現状はタンクを増設して凌いでいるが、今後どうするかは喫緊にして重大な問題である。
 今はまだ必要な情報共有さえなされておらず、幾つか考えられる方法の具体的な影響さえ周知されていない。議論にさえなっていない印象だが、このままでいいわけがない。充分な情報を共有しながら民主的な方法で速やかに結論を導かなくてはならない。今や国際問題にもなってしまったため、これは相当高度で複雑な設問である。

 そんな議論をしながら、我々はきっとまた「憶いだす」だろう。冷却水が止まりさえすれば、福島第一原発はいつでもまた爆発の危機に見舞われることを。
 そしてこの「憶いだす」作用こそが、「あはれ」と「無常」を辛うじて統合してくれることを。

2020/02/10 月刊 Journalism(朝日新聞社)

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タグ: 両行, 仏教, 原発, 復興, 東日本大震災, 福島県・三春町