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ポストコロナへの展望

 新型コロナウィルスによる感染が終息しない。書いている今(師走の末)と掲載時での時間差で、どうなるかは分からないものの、そう簡単には終わりそうにない、というのが現在の実感である。
 いつかは終わると楽観して「ポストコロナ」を考えるわけではない。ここでの思考こそがコロナウィルスの終息を呼び寄せる、との思いで標題の内容について考えてみたい。

 まず今回のことで、非常に強く感じたのは政治の力の重要さである。感染の蔓延を抑制するのは、緊急事態宣言や検疫の強化、あるいは休業補償つき営業自粛や時短要請など、政治的な決断に大きく左右される。台湾やオーストラリア、ニュージーランドなどの成功は、ひとえに政治家の本気度に依ると思えるのだが如何だろうか。
 また三者が共に島国であることも大きいだろう。島国が初期段階で検疫を強めれば、かなりの度合いで流入を止められる。昨年3月のテレビ演説でドイツのメルケル首相は、「国家による国民の移動や行動の制限」について苦しい心中を述べ、為政者の言葉としては特筆すべき熱意を発したものの、大陸で地続きという環境に翻弄された。しかしあれこそ国民が政治家からの無理難題に納得して従うモデルケースだったのではないだろうか。
 思い起こすのは奈良時代の天然痘である。仏教はじめ西域から大量の人や物が流入した時代、平城京には痘瘡(天然痘)が蔓延した。
 医薬も貧しく、また疫病の原因も神仏の祟りや怨霊の仕業と思っていた時代だから、実際の治療法などで参考にできることはないかもしれない。しかし問題は、為政者の姿勢である。聖武天皇がこの件で、悲痛なほど自省する言葉を残している。
「春以来、災厄の気がしきりに発生し、天下の人民が大勢死亡している。誠に朕の不徳によってこの災厄が生じたのである。天を仰いで慙(は)じ、恐れている。少しも安らかな気持ちになれない。そこで人民に免税の優遇を行ない、生活の安定を得させたいと思う」
 これは天平八年(七三六)、新羅に派遣した遣新羅使から広まった天然痘が、宮中から市中へと蔓延した状況での言葉である。現実には天皇のせいなどではないのだが、「朕の不徳によって」と再三懺悔しながら免税を断行した。
 さらに天皇は「使者を派遣し、疫病に苦しむ人民に(籾(もみ)米(まい)などを)恵み与えるとともに、煎じ薬を給付せよ(『続日本紀』)」とも述べている。要するに、困窮者への注目が顕著なのだ。夫人の光明皇后は興福寺に次ぎ、都の東西に施薬院や悲田院を建てて自ら献身されたが、こうした慈悲の心を為政者には是非持ってほしいと思う。
 聖武天皇は、当時新羅からの渡来僧審(しん)詳(しよう)に、三年もかけて『華厳経』の講義を受けた。「雑(ぞう)華(け)」(ふつうの花)が此の世を飾る(「厳飾(ごんじき)」)というその世界観は、光があらゆるものを隈なく照らすという大乗的理想世界を意味している。その光源として東大寺に巨大な毘盧遮那仏を建立したことは、人民に大きな負担をかけることでもあったわけだが、神仏に頼るしかなかった当時とすれば庶民もけっして失政とは思わなかったのではないだろうか。
 政治に求められるのは常にフランス国旗に謳われる「平等」の精神。「自由」は経済が、「博愛」は宗教が実現するに任せ、格差の解消、困窮者の支援にこそ力を入れてほしい。少なくともコロナ以後は、GDPという価値基準も効力を失うに違いない。いや、そうなってほしい。ニュージーランドのアーダーン首相は二〇一九年、新たに「幸福予算」を設けて注力すべき政策を定めたが、日本人が幸福感を感じるには何にお金を使えばいいのか、英断できる政治家が出てきてほしい。

 我々一人ひとりについては、間違いなく人生の密度が増す方向に変化するだろう。
 平均寿命という見方は江戸時代末期から起こるのだが、黒船が来た頃に世界で最も長寿だったのはイギリス。なんと平均39歳である。明治時代になって各国40代にはなるものの、長い戦争に突入して若者が大勢死んでゆく。平均寿命が鰻登りに上昇するのは戦後数十年の希有な状況ではないか。医療の進歩および乳幼児死亡率低下のお陰だが、はたしてこれがコロナ禍の中でどう保たれるだろうか。
 いずれにせよ死がもっと身近になり、禁足によって自分を見つめる時間も増える。運動は「自己リハビリ」のような形で、各自意志的に努め励む行為になるのではないか。
 介護や看護だけでなく、人は密着・密集するがゆえに生き延びてきた生き物。もともと「密」が好きなのだ。とりわけ小学校は人づきあいを学ぶ場と心得、どんな手段を使ってもナマの授業を継続してほしい。
 いっそのこと「密」になる相手を、「自然」へと拡げてみてはどうだろう。現代文明は、「自然」からの収奪を続けてきた。恵みを頂きながら収奪したのでは反乱を起こすのも不思議はない。震災、水害、ウィルス被害も「自然」からの逆襲と捉え、早急に和解の道を探るべきだろう。地道な第一次産業に多くの人がたずさわり、ネット情報は利用しながらも、もう少し閉じた、多様性のある世界を目指す。自給自足までは行かなくとも、それぞれが小規模ながら菜園を耕し、その土地独特の産物を楽しむ。大豆や小麦などは国内生産を増やし、ある程度閉じても生き残れる生活を目指すのである。
 日本政府はデジタル化を進めると言い、デジタル庁なる役所まで作るようだが、もとより「自然」ほどデジタルで扱えないものはない。自然に親しむというのはデジタルを離れることだし、そのデータは瞬間的な生の残骸に過ぎない。我々が生身を離れられない存在である以上、この事実は変わらないはずである。
 生身の自然は、じつは遺伝子レベルでウィルスの化石を内包している。レトロウィルスとボルナウィルスと呼ばれ、いずれも人類発生以前、共通の祖先の体内に入り込み、胎盤形成や免疫反応に大きく関与していることがわかっている。つまり我々は、ウィルスのお陰で子供も作れるし、同種のウィルスが侵入しても発症を抑えられる存在になったのである。
 地球上に存在するウィルスはおよそ10の31乗個。海水1mLには一千万個のウィルスがいるとされる。これはもう戦う相手ではなく、どうしようもない共生相手と思うべきだろう。自らは感染防止に努めながら、感染した人についてはそうした事実を憶いだして許容する。それこそ我々に求められる究極の「慈悲」ではないか。体もなまらせず、心も飛躍的にグレードアップさせた未来が待ち遠しい。
 思えばどれも、新型コロナの発生以前から願っていたことばかりだ。

2021/02/25 作業療法ジャーナル(株式会社三輪書店)

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