「そんなに近づくんじゃない」。
そう言われて畳の上を後ずさったのは、道場の入門試験が終わり、雲水の責任者に初めて面会したときだった。人に敬意を示すには、距離が必要なのだ。距離は畏敬の表現なのだと深く自覚した。
一方で人は「水くさい」などと言われ、時にもっと近づくことを求められたりもする。「近親」とも言うように、それは親しみの表現であり、同時に内密な気分や依存性・甘えなどもなんとなく漂う。更(さら)に近づいて「べたべた」すれば、悪巧みか恋情かと疑うが、ともかく人との距離が、心の在り方に密接に関係しているのは間違いない。人々はそれぞれ遠すぎず近すぎない自分なりの距離感を、長年かけて培ってきたのではないだろうか。
しかしこれまで体得してきたそんな身体感覚は、瓦解(がかい)した。いや、瓦解させなくてはならないのである。新型コロナウィルスによる肺炎の拡大防止のため、握手やハグを禁じた国もあるし、人はどんな場合にも社会的距離(ソーシャルディスタンス)を保つべきだとされる。少なくともワクチンや治療薬が開発普及するまでは、これは新たな時代の到来だと思うべきではないだろうか。
ドイツのメルケル首相は「親愛なる国民の皆さん」と題する感動的なメッセージの中で、この事態を「第二次世界大戦以来、我が国において最も一致団結を要する挑戦です」と述べている。たしかにこの国でも、強制的ではないにせよ、殆(ほとん)どの学校が休校し、イベントや会議まで中止になり、外出や移動の自粛が要請されている。おそらくこれは戦時中以来の出来事だろう。いや、病院で働く人々の状況を想えば、今はまさに戦時中なのである。
七都府県に緊急事態宣言が出され、今こそ全国的に「一致団結」すべき時だが、集まらずに一致団結するのだからこれはかなり難しい。
憶(おも)いだすのは何年か前、九十八歳で亡くなった女性のことだ。お寺にやってきた娘さんは、戒名に「凜(りん)」という字を入れてほしいと言う。聞けばその母親は、親族に凭(もた)れず、最後まで自分のことは自分でしたし、行けば喜ぶものの、子どもたちを呼ぶこともなかったらしい。それこそ「水くさい」親だったそうだが、娘も息子も心中では親しみと畏敬とを同時に感じていた。だから「凜」が相応(ふさわ)しいと言うのである。
安倍総理は緊急事態宣言に伴い「行動変容が大切」だと話したが、私はすぐにその女性を憶(おも)いだした。信頼し、親しくもあり、会えば嬉(うれ)しい人なら、つい会いたいと思うし、距離も近くなる。それが自然なのは分かっているが、今は会わないし、会っても近づきすぎるまい。
我々が目指すべきなのは、そのような「凜」とした連帯なのではないだろうか。陽性で無症状もあり得るこのウィルスは、相当に手強(てごわ)い。
2020/04/12 福島民報