新型コロナウイルスの導く世界

緊急事態宣言の対象区域が全都道府県に広がった。不要不急の外出自粛をはじめ県境を越えての移動も抑制されることになる。しかしウイルスは国境や県境を容易く越える。マクロとミクロの視点から作家で僧侶の玄侑宗久氏が、新型コロナウイルス現象を読み解く。

 ここ十年ほど、人類にとっての災厄が続いている。東日本大震災での地震、津波、原発事故は未だ復興半ばだが、その後も世界中で自然災害が多発、激甚化し、戦乱に劣らない死者を出しつづけている。
 今回世界中を席巻している新型コロナウイルスは、そうした災厄の中でも極めつけと言えるだろう。多くの自然災害は、行政の力と住民同士の連帯によって乗り越えつつある。放射能の拡散では多くの孤立を招いたが、それでも孤立した人々同士は連帯し、励ましあって生き延びてきた。しかし今回の災厄の最大の特徴は、その連帯が許されないことではないか。
 もしも絶対神が存在し、この地球上で起こることを睥睨しているとするなら、我々はいかなる試練を与えられ、どんな教訓を学べと迫られているのだろう。
 地域性や国柄まで無化するほどの行き過ぎたグローバリズムがまず浮かぶ。古来、グローバルな交易はさまざまな悪弊をも運んだ。シルクロードは絹を欧州に運び、その影響で日本にも仏教や西域の文物をもたらしたが、同時にインド発と思われる天然痘も東西に運んだ。平城京にも天然痘が流行し、藤原一族など多くの死者を出したのである。
 また中世にはモンゴル帝国の西への拡大に伴い、交易も活溌になったが、中央アジア発と思えるペストもネズミと共にヨーロッパに運ばれた。欧州ではローマ帝国時代に次いで二度目のパンデミックに見舞われ、黒死病と呼ばれた奇病は原因も分からず、三百年ちかくに亘って欧州全体の約三分の一の人々が死亡したとされる。
 そこから人は、「メメント・モリ(死を想え)」という敬虔な生き方と、どうせ儚い人生なら、という快楽主義とに別れた。ルネッサンスにおける回帰の思想も、その流れの中で生まれてきたものだが、大切なのは、それでも神が創った世界の完全な法則を信じようとするアイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見し、科学の先鞭をつけたことだろう。つまり、敬虔な神への信仰が科学を生みだしたのである。
 科学はやがて産業革命を経てさまざまな技術を生みだし、技術は人間の欲望と結びついて走りはじめた。そして行き着いたのは不都合なものは取り除き、自然さえ使役しようという世界ではないだろうか。科学技術は神の鬼子だったのである。
 おそらくこの地球に生きるには、恰度いい技術の頃合いがあったはずだが、技術じたいにブレーキはなく、どうしても行き過ぎる。我々はもはや神の思惑を遙かに越えた地点まで来てしまい、大切な玩具を失った子どものように途方に暮れているのではないか。
 哺乳類や鳥類に限らず、今や人間はあらゆる生命を踏みにじり、利益を追求しつづける。街中で30 年ぶりに山猫を見たという情報があったが、ヒトの行動自粛は他の動物には恩恵なのだろう。限りある地球資源の中で「右肩上がり」の経済が可能だと信じ込み、そのためには外国人労働者も雇い、GDPだけは下げるまいとする。おそらく神の座も動物の居場所も、永くGDP様に捧げ続けてきたのだ。
 今回の件を、各国首脳は戦争に喩えるが、発端は「目に見えない世界」からの反撃かもしれない。前回は放射能という有能な部隊が遣わされたが、計測で見破られる弱みがあった。しかし今回のコロナウイルスは無敵である。あるかないかも分からず、ならばあるものとして接しようという人間同士に差別を生みだす。自ずと人々は分断され、人間の強みである連帯の力が発揮できない。ならばどうするのか、それが今回の試練だと、忘れられた神が呟いているような気がする。
 「メメント・モリ」。再びその言葉が大きく響く。
 仏教徒とすれば、釈尊が「土中の虫の殺生になる」と農耕を禁じた豊かな想像力を想わずはいられない。スプーン一杯(5グラム)の土には、虫どころかおよそ50億個もの細菌(バクテリア)が生きている。自分の腸内にも、約3万種類、数では百兆個から千兆個、重さにすれば2キロ㌘ちかい細菌が我々と共生しているのだ。ビフィズス菌や乳酸菌など、都合のいい菌ばかりを優遇し、その他を一括りに殺生する抗菌社会は、同時に土中の細菌たちもコンクリートで殺し尽くしてきた。目に見えないそんな命たちの怨念こそ、生物かどうか判らないウイルスの正体ではないか。
 仏教的に考えれば、やはり天然痘に襲われたこの国を緩やかに纏めた「華厳」の思想、奈良東大寺の毘盧遮那仏こそが求められているように思える。すべての「雑華」がそれぞれに咲いて距離を保ったまま繋がり、その全てが光明の中にある世界。宗教的行事や空間もクラスターとして危惧される現在、それは思想として個々をつなぐ微かだが頼もしい希望である。
 積み重なった怨念に勝とうなどと思わないほうがいい。ましてウイルスを挟んでいがみあっていては怨念の思う壺。今はとにかくGDPや戦いの気分を忘れ、群れずに「独りを慎み」、「知足」の暮らしを続けて共生の道を探るしかない。廃仏毀釈や先の戦火からも甦った宗教者たちの「離れて繋がる力」に期待したい。思えばそれらは仏教サンガの目指した「和合」の基盤だ。生活基盤を守るため、感染の怖れを圧して働くエッセンシャル・ワーカーへの感謝も忘れてはなるまい。

2020/04/23 佛教タイムス掲載

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