日本人の心性を培った最大の習慣は、正坐ではないかと思う。正坐は次の行動に待機する型でもありながら、そのまま禅定にも入ってしまえる。どっちつかずと言うこともできるが、欲張りな「両行(りょうこう)」である。また正坐は腹式呼吸に導かれやすく、それゆえ副交感神経優位にもなりやすいとされる。もしも日本人が寛容だとするなら、正坐の影響はかなり大きいのではないだろうか。
そんなふうに考える私であるから、たとえば寺の本堂をすべて椅子式にするような最近の風潮には抵抗がある。膝が痛い腰がつらいというお年寄りには椅子を用意しているが、子供には正坐を覚える場所になってほしいと願っている。正坐ができないと伝統的日本文化のほとんどは享受できないからである。
しかし斯く言うそんな私も、今は椅子に坐ってPCに向かっている。子供の頃から板の間に正坐もしたが、椅子もずっと使ってきた。もしかすると正坐と椅子の「両行」も、漢字と仮名の併用に似て日本人らしいやり方なのかもしれない。
いつのまにか生活に溶け込んでいた椅子と、あらためて出逢った気がしたのは三十代になってからだ。じつは東京・代官山にある北川フラム氏のアートフロントギャラリーで、アントニオ・ガウディの「夫婦の椅子」を見てしまったのである。
すわり心地という観点では、さまざまな椅子を試したこともある。仕事をするにせよ寛ぐにせよ、椅子がいろんな自分を演出してくれることも感じてはいた。しかしガウディの「夫婦の椅子」は、当時独身だった私に、夫婦の在り方そのものを明確に示してくれたのである。
その椅子は、二つの椅子が九十度の角度で開いたまま一体化していた。夫婦で坐れば、おそらく二人の肩がかすかにふれあうだろう。
夫婦は共に椅子に坐る時間をもつべきなのだと、まずその椅子は主張していた。そうでなければ椅子が一体化している意味はない。しかもその場合、二人の興味の中心は九十度も違っていていいのだ。
たとえば恋人ならば、同じ星を並んで見上げるベンチに坐ってもいい。また視界はまったく違っても、二人向き合ってお互いを見つめ合うものいいだろう。しかし夫婦とは、たぶんそんなに無理をしたり酔いしれたりする関係ではないのだ。
直角に開いた椅子に坐った二人は、少し首を捻れば相手と同じ星を見ることもできる。正面つまり興味の中心は違っても、相手の正面の景色を想像することはできるはずである。しかし直角の意味とは、おそらくそうではない。意志すれば相手の存在を感じられる角度なのも確かだが、それは没頭すれば忘れて「独り」になれる角度なのだ。
正坐と同じ「待機」と「禅定」が、この椅子では夫婦で実現できそうなのである。
2020/05/01 かまくら春秋