新型コロナウィルスの流行により、マスク着用での外出や対面が新たなスタンダードになった。私自身は何十年ぶりかのマスクであるため、今も時々忘れ、お寺まで戻ったりする。
お経を唱える場合はご遺体と遺影のほうに向いているため、今のところマスクは外して唱えている。飛沫が飛んだとしても参列者に影響はなさそうだし、第一私自身が苦しいからである。しかしこれも、自粛警察のような人が一人でも現れれば、場を穏便に保つため、マスク着用で唱えようとは思っている。慣れない事態で必要以上に厳格に考える人が出るのは無理もないことだ。
六月九日夜のテレビで興味深い番組を視た。長く中止されていたウィーンフィルと日本フィル両交響楽団の演奏が、ついに再開したという。とても嬉しいニュースなのだが、両者のあまりの違いに驚いた。ウィーンフィルは科学的に演奏中の飛沫の航跡を調べ、最も飛びやすい管楽器でも75cm離れれば大丈夫だと検証した。だから楽団員の配置は普段通りでいいと判断し、客も限定的だが入れて演奏した。
しかし日本フィルのほうは、額面通り2mのソーシャルディスタンスを取らせたため、普段よりメンバーの音が遠く、ハーモニー作りに苦労したという。しかも聴衆はオンラインでの客のみなのだ。
念のため、と防疫がつい過剰になってしまうのは無理もないとは思う。しかしいつまで継続するか分からない以上、ある程度合理的なラインまで巻き戻す必要があるだろう。
話をマスクに戻そう。親しい来客だと、ついマスクをしていては失礼かと思ったりする。実際、お茶を出すと相手もマスクを外すため、こちらも外したりするのだが、よく考えれば親しい人が安全だという保証はなにもない。ここ十日ほどのその人の行動など知るよしもないのだし……。差別的な感情以外なんの裏付けもないこの区別は、いずれ家族間でも適用できなくなるのではないか。マスクを外した顔など見たこともない、という知人(半知人)が増えていくのだろうか。
マスクをしていると声がよく聞こえず、思わず近づきすぎてしまうこともある。しかしマスクが多少とも羞恥心を覆ってくれるのも事実だ。なかには宝齢線が隠れて喜んでいる人もいるらしいが、さすがに眼だけでは感情が読み取りにくい。話したあとの唇の歪みや緩みなど、普段は相当微妙なサインも感じとっていたことにあらためて気づく。
今後は熱中症の絡みもあって、マスクの着脱が大切になっていくのだろう。昔はマスクをした怪しい人、というのがいたものだが、今後は素顔のほうが怪しまれるに違いない。心配なのは小学校に入学したばかりの子どもたちだ。果たしてマスクをしたままで友達になれるのだろうか。とはいえ、検査で陰性が証明できなければ素顔は怪しいまま……。しばらくは皆で耐えるしかなさそうだ。
2020/06/14 福島民報