特集 くらしに生きる哲学 禅と茶の湯

命の伴侶

 お茶と禅の出逢いは、初めは坐禅による睡気(ねむけ)を防ぐためだったとも言われる。今でも煎茶の抗がん作用などが取り沙汰され、その薬効が強調されることもある。ただ、役に立つから「つきあう」というのでは、功利的すぎて長続きするまい。恋人以前と言うしかない。
 しかしその後もお茶は、仏前に供えられることで禅を物陰で支え、常に清新な色香が好まれて長い蜜月に入った。ほどなく別れられない関係になったわけだが、それをよく示すのが「且坐喫茶(しゃざきっさ)」である。
 臨済義玄(りんざいぎげん)が行脚(あんぎゃ)して三峯山に到ったとき、若き臨済禅師は平和尚に性急に問答をしかける。しかも美文調で難解な言葉を連ねる禅師に対し、平和尚は「そなたの問いは高尚すぎる」と窘(たしな)め、「まぁ坐ってお茶でもどうだね(且坐喫茶)」と誘うのである。
 ここでのお茶は、薬効も香りも味さえも問題ではない。とにかく坐ってお茶が出されるまでの「閑(かん)」なる時間をもつことこそ肝要なのだ。換言すれば日常の過ぎゆく時間から、流れない時間(「壺中(こちゅう)の天」)に入らないかとの誘いでもある。そこでこそ本当の智慧(般若・はんにゃ)が湧きだすことを、二人とも熟知していたはずである。
 趙州(じょうしゅう)和尚の「喫茶去(きっさこ)」(まぁとにかくお茶をどうぞ)も同じ主旨だ。禅にとって「とにかく」「お茶」、というこの関係は、長年連れ添った老夫婦のように、もはや一心同体と言ってもいいだろう。
 二〇一一年三月の東日本大震災では、私の住する寺の本堂も庫裡(くり)もスリッパでしか歩けないほど散乱した。およそ六分間も揺れ続けたため、天井や屋根裏に溜まっていた煤(すす)や塵埃(じんあい)までが無数に舞い落ちたのである。
 慌てふためく寺族たちに最初に告げた言葉は「まぁ坐ってお茶でも飲もう」だった。お茶は呼吸と同様、もはや命の伴侶なのだ。

2020/10/01 なごみ(淡交社)

関連リンク

タグ: ,

トップへ戻ります