ソクラテスは対話を重んじたことで知られる。朝食を終えると毎日粗末な衣服のまま街に出かけ、広場や神殿など人の集まる場所で誰彼となく問答を仕掛け、相手に「不知の自覚」を促したとされる。神に比べれば我々の知性など無に等しい。そのことを自覚することから「知への愛(=フィロソフィア=哲学)」は始まる、という理屈である。
しかしいきなり対話の相手にされた人々にすれば、これは「変な爺さんのいいがかり」であろう。唐突な質問にはなんとか答えたものの、変な爺さんは頭から否定したり笑いだしたりする。相手によっては感情的になり、殴ったり蹴ったりもしたようである。
とうとうそのうちに論破された一人が逆恨みして、ソクラテスは告訴された。「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」という罪状である。公開裁判ではいわゆる「ソクラテスの弁明」を堂々と展開し、「ごめんなさい」は言わずに死刑が確定。毒にんじんの杯を呷って潔く刑死したのである。
その後、アリストテレスも対話篇を多く書いたし、東洋では仏教や儒教の多くの経典にも弟子との対話が用いられた。対話は、人間の心を解く技術としてその後も重視され、磨かれていったように思える。
精神分析家でもあった河合隼雄先生のある著書に、緘黙症の少年と向き合った体験が書かれていた。少年が一言も喋らないので、三十分ほど何も話さないで一緒に坐っていたというのだが、面会後に少年は、「あの先生が自分のことを一番理解してくれた」と言ったらしい。言葉を用いずに心を通わせることも可能だということだろうか。
ところでこのところ、対話にならない会話、いや、「変な爺さんのいいがかり」ばかり目にする。一つはアメリカ大統領候補者どうしのディベイト。人間や民主主義はこの二千五百年、はたして進歩したのかと思わせる罵倒合戦。相手の話は聞かず、同時にわめきあう様子はまるで獣の雄叫びである。
もう一つは我が国の総理。日本学術会議に推薦された百五人のうち、六人を外した理由説明を求められ、「総合的、俯瞰的観点から」と繰り返すばかり。敢えて論点をずらしているのだろうが、総合的、俯瞰的に見るとなにゆえ六人が不適当だったのか、それを言わなくては答えにならない。現代国語の論述問題なら間違いなく「×」である。
つまりどちらのケースでも、対話が始まってさえいないのだ。
中国の代表者も含め、今やけっして自らの非を認めない強情な人々ばかりが世界を動かしている。池袋の事故の加害者もそうだが、そこには「不知の自覚」も「潔さ」もない。ソクラテスのように信念に殉死するつもりなら別だが、早めに「ごめんなさい、間違えちゃった」と言って、遅れ馳(ば)せでもまともな対話を始めるべきではないだろうか。
2020/10/18 福島民報