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天真を養う 第1回

○△□

 今回からこの欄をいただき、駄文を綴ることになった。総タイトルは「天真を養う」だが、主に養生や呼吸、禅、瞑想、書道、あるいは日常茶飯事なども話題にしながら、命とのつきあい方を考えてみたい。
 この言葉、元々は「虚懐天真を養う」という禅語だが、虚懐とは何の懐(おも)いもない虚空のような心、そういう状態になる(戻る?)ことで、人は天から授かった命(天真)を養うことができるというのである。
 今回は夙に知られた仙厓和尚の「○△□」だが、これこそ天真の自在で活溌な心の表現ではないだろうか。
 「○(一円相)」は、よく卒塔婆の頭などにも墨書するのだが、これを最初に描いたのは六祖慧能(えのう)禅師の直弟子で、百歳まで生きた南陽慧忠禅師(六七五~七七五)だとされる。爾来禅僧たちは、なにかといえば「○」を描き、闊達自在な心の表現としてきた。「○」という形は、いわば常に変化しつづける無常の軌跡。少しでも気が抜けて惰性になると生きた「○」にならない。
 しかし思えば「○」がそれほど難しいわけではない。馴れてひょいひょい描く人だって現れるだろう。仙厓義梵禅師はたぶんそういう「○」をよく見かけたに違いない。こんなものは天性の無垢で活溌な心ではないと腹に据えかね、「○△□」を描いたのではないか。その大真面目さを証拠づけるのが「扶桑最初禅窟」という銘である。仙厓が入寺した日本最初の禅道場、博多聖福寺のプライドに賭けて、という気慨が感じられるではないか。また仙厓はわざわざ力の籠もらない「○」を描き、「これ食ふて茶飲め」などと、饅頭扱いしている。
 人の個性ばかり喧伝される世の中だが、禅はそんなものは認めない。それは馴れた「○」と同様、単なる習慣に過ぎないと考えるのだ。天真とは個性などを遙かに超え、もっと自在に活溌に「○△□」の如く変化できるものだと、仙厓和尚は説くのである。
 ところで書道にせよ武道や茶道にせよ、「道」と名のつくものには「習慣化」や「繰り返し」が欠かせない。何度も何度も同じようなことを繰り返すなかで「身につく」のではないか。身についたことは無意識にできるから自分のなかの「自然」が拡張され、天真にも近づける。確かにそれも正しい理屈だから厄介である。私なりの解釈で書くと、「まず慣れよ、しかしけっして馴れるな」ということになる。
 禅では「百尺竿頭に一歩を進む」と言う。それじゃ竿から落ちてしまうと懸念されるだろうが、完成がないのが「道」であれば前へ進むしかない。進めばおそらく新たな道が開けるはずである。
 この絵か書か判らない「○△□」、窮屈さではなく自在さを感じさせるのは、微妙な墨色の使い分けのせいだろうか。慣れた技が馴れない心をじつに見事に表現している。

2020/12/28 墨 268号(芸術新聞社)

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