1. Home
  2. /
  3. エッセイ
  4. /
  5. 10年という区切り

論 震災10年

10年という区切り

 東日本大震災から10年が経った。ここでは復興の現状とこの10年の変化を訊(き)かれているのだろうが、これに答えるのは非常に難しい。
 まず10年という期間は、震災と関係なく人をあまりに大きく変化させる。以前は歩けた人も歩けなくなり、這(は)い這いをしていた子供がサッカーで駈けまわり、親に反抗していた少女が2児の母になっていたりする。成長、あるいは老化による心境の変化は甚大で、風景だけを単純に比較するわけにはいかないのである。
 加えて「復興」の定義がなされていないため、とても「何割済んだ」などとは言えない。なにより阪神淡路大震災と違い、復興構想会議が1年弱で解散になってしまい、被災地全体についてのビジョンが描けなくなった。それゆえ復興政策は被災各市町村に委ねられ、年を追うごとにその違いは際だちつつある。
 一つ具体例を示しておこう。富岡、大熊、双葉、浪江、葛尾、飯舘の福島県各町村にあった帰還困難区域の一部は、「特定復興再生拠点区域」と定められて近々人が住めるようにと除染が進められ、それ以外の土地は行政用語で「白地」と呼ばれている。「白地」とはつまり、費用と時間の関係で当分放置するしかないと諦められている土地だ。その「白地」について、政府は昨年の12月25日、人が居住しない公園や工業用地としては未除染であっても使用できると決めたのである。
 むろん年間の積算放射線量は20㍉シーベルト以下、地元との充分な協議を条件にはしている。しかし一般に除染の基準は追加被曝(ばく)量が年間1㍉シーベルト以下を目指しているのだから、驚いた自治体が多かった。はっきり申し上げれば飯舘村がそれを希望し、他の多くの自治体は抗議の声を上げた。当然、飯舘村民の間にも分断はあるだろう。震災直後からさまざまな分断を経験してきた被災地だが、政府が何かを決めるたびに分断が起こるというのが実情である。
 根本的な問題の一つは、行政機関が使っている地図にあった。一朝事あれば、我々は「字」単位で救援物資を集めたり、炊き出しに出たりした。地域区分も「字」を最小単位にすべきだろう。しかし政府や行政が使っている2万5千分の一の地図では、「字」の区分が表記されていないのである。
 分断について書いたついでに分散についても触れておこう。原発事故直後はそれこそ安全な地を求め、蜘蛛(くも)の子を散らすように避難したわけだが、その避難先は外国も含め、日本各地に及んだ(現状47都道府県、932市区町村)。私が講演先で面会を求められた体験だけでも、兵庫県丹波や岩手県、徳島県、福岡県などがある。そして旅行で出かけた八丈島にも20人あまりの避難者がいた。夫婦で八丈島に避難した2人は、夫が郵便局に勤め、奥さんは黄八丈などの売り場で働いていた。選挙の投票用紙などは被災自治体から郵送しなくてはならず、富岡町の役場職員に訊いたところ、「避難先は徳島県以外の全都道府県です」との答え。仰天した。じつは今、避難者のワクチン接種をめぐって選挙以上の問題に直面している。飯舘村の元村長菅野典雄氏の発案で、避難者は避難先に住みながら元の市町村民でありつづけることが可能になった。しかし、ワクチン接種では避難先で個別申請する繁雑さは避けつつ、接種状況をどうやって所属行政が把握できるか、政府は智恵を絞っている最中のようだ。
 ちなみに、今年1月31日現在の県内避難者は7220人、1月13日時点での県外避難者は2万8959人である。一時は16万人以上が避難していたことを思えば、現状をどう見るかはそれぞれだろうが、今なお応急仮設住宅に残る人々がいることは忘れないでいただきたい。去年の1月末には福島県で113人がまだプレハブの仮設住宅に住んでいたが、今年の数字はまだ把握していない。

 原発を巡っては、国として大きなエネルギー転換がなされていくことを期待していたわけだが、安倍長期政権は遂に大きな変化をもたらさなかった。福島県議会は第1・第2原発双方について、廃炉にするよう何度も決議したが、最終的に東電が第2原発の廃炉を決定したのは2019年の7月である。
 営利企業である以上、「不都合な真実」を隠す性癖もなかなか改まらず、また最近は格納庫上部に危険な高線量部分が見つかったり、散乱したゼオライトに打つ手がないなど、予期せぬトラブルも相次いでいる。廃炉行程は約40年と見積もっていたわけだが、遅延するのは間違いないだろう。
 管政権の突然の「脱炭素宣言」も原発再稼働を後押ししている。再生可能エネルギーが未発達な現状では、原発に頼らざるを得ないということだろうが、自然災害が目に見えて増加している状況では不安である。原発にしてもリニアにしても、これだけの地震国に相応(ふさわ)しい技術だとは思えない。
 ただ国は、2030年までに福島県内に、電力の全てを再生可能エネルギーで賄う工業団地を整備する予定だという。燃料電池車への移行、そして水素発電の実験研究をするようだが、中継ぎとしてのアンモニアを使った火力発電も期待され、代替技術の登場に伴って原発については考えるということかもしれない。
 震災後、はっきり見えてきたのがこうした「GDP至上主義」である。国家予算も国債の発行額も鰻登(うなぎのぼ)りに上昇し、子孫への負担は無制限に増えつつある。廃炉や「中間貯蔵施設」のその後のことなど考えると、いったいこの国は未来への責任をどう考えているのかと訝(いぶか)る。倫理や文明論よりも、とにかく目先の経済ばかりを気にする傾向が震災後も長く維持されてきた。新型コロナウィルスへの対処でも、「Go To」政策がいったい我々をどこへ連れ去ろうとするのか恐ろしい。

 風評被害を含め、被災地の人々は悲喜交々(こもごも)を濃密に体験してきた。自殺者も増え、イノベーションも起こった。大きな災害があれば、新旧勢力交代など様々なことが起こるのは「なまず絵」の時代から変わらない。しかし今回の震災がこれまでと違うのは、放射能という相手との関わり方だろう。端的に申し上げれば政治と科学の関係である。
 たとえば食品中の放射性物質の基準は、飲料水の場合、欧米では1キログラム当たり1000とか1200ベクレル未満と決められている。しかし日本の厚労省は、なんと10ベクレル未満と決めたのである。当時の厚労大臣は「低いほど安心していただける」と述べたが、科学的「安全」と心理的「安心」とを混ぜ込んでしまった。これは「きれい好き」では済まない科学への冒涜(ぼうとく)である。そしてその結果、風評被害は増長し、被災地の人々の首が絞められた。誰でも簡単に想像できるはずである。
 今後の問題点を挙げれば、何よりトリチウム入り処理水の処分法についての議論だろう。当初は昨年末までに結論を出すとしていた政府だが、薄めて海洋放出するという提案は漁民の反対に遭い、暗礁に乗り上げた。私はいま処分法が問題なのではなく、それについての議論が問題だと書いたが、これこそ日本の民主主義の成熟度が問われるテーマではないだろうか。立場が違えば当然考え方も違う。知識を充分共有したうえでどこまでお互いが歩み寄れるのか。日本学術会議におけるような強権的な決定は絶対に許されないはずだ。
 初めのほうにも書いたように、定義もなかったためいつ終わるとも知れない「復興」だが、雲門禅師も「十五日已前は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来たれ」と問いかけた。今年の3月11日を大きな区切りとして、以後は「日々是好日」で過ごしたいものだ。

 

2021/03/12 中外日報

関連リンク

タグ: 東日本大震災