すこし大袈裟かもしれないが、西洋と東洋の人間観の一番の違いは、アイデンティティ(自己同一性)を認めるかどうかではないかと思う。イデアを奉ずる西洋では多面多臂が登場すると必ずや悪者、化物であるのに対し、東洋では阿修羅や千手観音そして十一面観音などがむしろ篤い信仰を集めている。これも東洋人が多面的人格を肯定的に捉えているせいではないだろうか。
最近はダイバシティ(Diversity=多様性)という言葉もよく聞かれ、西洋でも多様性が重んじられているかに見える。しかしこれはあくまで組織における多様な人材のことで、個人のなかの多様な顔という話ではない。個人のなかに多様な人格があれば、西洋ではまず解離性同一性障害(多重人格)が疑われることだろう。
ところが仏像の多くは、成道後のゴータマ・シッダールタ即ち釈尊に属するさまざまな能力の化身とされる。つまり個人のなかの多面性の一部抽出なのだ。病気を治す能力は薬師如来として祀られ、学問的叡智は文殊菩薩、また未来への安心は弥勒菩薩、救済者としての即応性は地蔵菩薩という具合で、釈尊の能力の多面性がそのまま仏像の多様性に繋がったのである。
もともとインド伝統のヒンドゥー教では、シヴァ神のようにさまざまなアヴァターラ(化身)を使い分ける。いわゆる本地垂迹説や「権現(ごんげん)」の発想も、ヒンドゥー教に共通している。つまり救済者が相手の状況に応じて変身するのはごく普通のことで、それこそが「観音力」の基本なのだ。またシヴァ神が破壊と再生のシンボルであるように、同一神が真逆の性質を兼備している場合も多い。じつはバラモン教にも十一面の神が存在するのだが、そうした原型が多面性重視のヒンドゥー教のなかで更に練り上げられ、七世紀のインドで十一面観世音菩薩として登場したのではないだろうか。時を措かず中国や日本でも人気を博すことになる。
原名は「エーカーダシャムクハ(=十一面)」で、当初は観音の一種ではなかったはずである。私の推測だが、おそらくこの像を信仰する人々が集団でブッダの教団に改宗し、その際信仰対象だった十一面さまが十一面観音として仏教内での立場を得たのではないだろうか。
仏教は、さまざまな他宗の神を取り込みつつアメーバ状に増殖してきた。現在では地蔵菩薩や阿修羅などもイランのゾロアスター教から誘致されたと考える人々が多い。大黒天や毘沙門天、弁財天などは十一面観音と同様、ヒンドゥー教由来である。こうした仏教による吸収拡大は、信者の増大にも繋がったが、同時に教義の深化をも促した。たとえば地蔵はいつでもどこへでもすぐに出向く模範的な菩薩になったし、阿修羅を取り込む際には五趣を六道に拡張し、修羅道を増設した。人間心理における闘争心への注目が仏教に深みを加えたのは間違いないだろう。
では十一面観音の場合はどうか。
観音さまは本来三十三身(=無限身)に変化する応化自在の菩薩である。悩み苦しむ衆生が求める姿になってどこにでも現れ、いかなる苦悩からも救済してくださるという。しかし何度『観音経』を読み、変化自在であることを知識として知っても、変化は時間軸に沿って次々に起こるため、なかなか実感しにくい。人間の想像力も、状況によって限定されやすい。ならばいっそのこと救済に関わる変化身を一堂に並べて見せてしまってはどうか。そう考えたのが「十一面」を造像した人々ではなかっただろうか。
結果的にそれは、救済の受け容れ範囲を360度に拡げることにもなった。またこれだけ数があれば24時間対応も可能かと思わせるだろう。実際の布陣は、穏やかな慈悲の表情の「菩薩面」が正面上に三つ、眉をつり上げ、口を「へ」の字にして悪を戒める「瞋怒(しんぬ)面」が左頭上に三つ、また右頭上には歯をちらりと見せて衆生を励ますとされる「狗牙上出(くがじょうしゅつ)面」が三つ、更に真後ろには「暴悪大笑面」という大笑いの顔があり、衆生の悪行を笑い飛ばして滅するという。また頭頂には統括者たる仏の仏頂面が鎮座している。すべてはこの仏の統括下での本体の変化身だから同時に存在するわけではないのだが、こうして同時に見せられると皆で協力してパワフルに対処してくれそうでいかにも頼もしい。
日本では奈良時代から主に病気平癒を願って造像されたが、経典には十種の現世利益と四種の死後功徳も説かれ、殆んど万能である。日本では特に修羅道接化(せつげ)のエキスパートとされるから、ほら、闘争心に振り回されがちなあなたもあなたも、まずは十一面観音さまにお参りを。
2021/06/01 うえの 2021年6月号