沢庵宗彭「竹画讃」 福聚寺蔵
西洋の人々が東洋に憧れるとき、そこに意外なほど竹という植物が介在していることに気づく。茶筅や竹刀(しない)、筆や弓矢にも竹は欠かせないが、むろん竹林という環境もインドには竹林精舎を生みだし、中国では七賢人の栖(すみか)になった。
清爽、剛毅、柔弱、恬淡、節操、幽玄。いずれも竹林から生まれた美学かと思えてくる。
仙厓は、晩年よく竹を描いたが、「此竹ハちいさけれともぬっと来た」と讃した如く、讃えたのはその弾力性、現代風にいえばレジリエンスだろうか。昔から「竹に枝折れなし」と言われた柔弱ゆえの強さである。多くの節と中空ゆえに強いという構造も面白い。
今回ご紹介するのは、前回も言及した沢庵宗彭禅師の「竹画讃」。仙厓の竹とはずいぶん趣きが違う。元代の文人画家たちは、冬の梅、春の蘭、夏の竹、秋の菊を「四君子」として讃え、好んで描いたが、そこで竹が褒められた徳は相変わらぬ常葉の翠と剛直さである。
沢庵和尚は香厳(きょうげん)和尚が庭掃除中、箒に弾かれた石が竹に当たる音を聴いて大悟したとされる「香厳撃竹」のエピソードを踏まえ、以下のように讃する。
「此の君、真に正法眼を具(そな)え、侘家の寒翠中に堕せず。曾て香厳に一転語を答え、今に至るも冷して斜風を打す」
ここでは、竹という君子が人生を転換するような一転語を香厳和尚に示し、今も変わらず涼風を湛えていることが讃美されている。冬の翠もさまざまあるが、やっぱり正法眼を具えた竹は抜きんでているというのだ。
いつも不思議に感じるのだが、外は無風でも竹林に入ると微かな風が吹いている。この涼風こそ、竹が夏の君子とされる所以だろう。
禅にとって、涼風は時に仏の徳にも喩えられるほど重要である。
何かを目指し、一心に努力することは大切だし欠かせないが、その心は凝っているため、本人も周囲も熱くなって何も見えなくなる。
それは、目指さなければ得られないのは間違いないのだが、目指していることを忘れたときに前触れもなくふっと訪れる。目指していた自分が目指されていた自分と一致し、いや、もともと同じだったと気づいたときに吹くのだろう。常に冷静に、そのことに気づけと吹くのが「斜風」ではないだろうか。
竹を用いる茶や剣、書や弓など、日本には竹の徳に依った「道」が数多くある。『竹取物語』でも竹林は異界への入り口だったが、我々はもっとこの国に竹林あることに感謝すべきなのかもしれない。
それにしても沢庵和尚の竹は、一見豪快だがじつに繊細である。まるで和尚の重んじた「義」や「誠」が、竹の姿で現れたようだ。
2021/11/01 墨 2021年11・12月号(273号)(芸術新聞社)