一行書「不労心力」
夢窓疎石
紙本墨書 一幅 南北朝時代
東京国立博物館藏
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
『臨済録』に次のような説示がある。「心法は形無くして十方に通貫す。眼に在っては見(みる)と曰(い)い、耳に在っては聞(きく)と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しつそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。本(も)と是れ一精明、分かれて六和合と為る」。
つまり五感や行為の全てに心は関わっており、心がうまくはたらかなければ見聞覚知も会話も行動もまならない。更に問題なのが意識、いわゆる心で、一精明が分かれるからこそ不安も悩みも発生する。迷うのも心、悟るのも心だから厄介だ。
『無心論』を書いたとされる初祖達磨に初めて逢った後(のち)の二祖慧可(えか)は、「不安で仕方ないのです」と達磨に縋る。「吾が心を安んじてください」と。すると達磨は「ならばその不安な心をここに出してみよ。安んじて進ぜよう」と答える。「探してみましたが、今はありません」と言う慧可に、達磨は「汝の心を安んじ終えたぞ」と告げた。
その三十年後、慧可の許にやってきた後の三祖僧璨(そうさん)は我が身の難病を嘆き、「私を懺悔せしめてください」と迫る。「ならば懺悔すべき罪を、ここに出してみよ」と告げた慧可に、今度は僧璨が「探してみましたが見当たりません」と答えたのである。慧可が「汝の懺悔は済んだぞ」と応じたのは言うまでもない。
そうして達磨以来の安寧で清浄な心を追求した三祖僧璨の『信心銘』、「心力を労せず」はその四言百四十六句のうちの一句である。
心の秘密が周到に描かれる『信心銘』の章句には、夢窓疎石も感じ入ったのだろう。禅での信心とは、自分の心を信じるのでもないし、外の何かを信じるわけでもない。僧璨は、人の心そのものが信だというのである。自然のままの心に戻れば、「虚明自ずから照らし、心力を労せず(形なき光明がちゃんと全てを映しだし、わざわざ意識をはたらかせることもない)」という。そしてそれは「非思量の処、識情測り難し(思慮分別を超えた世界だから、知識や情意では測りようもない)」と言うのだ。
後に七朝帝国師と称され、七人の天皇の帰依を受けた夢窓疎石だが、九歳で出家して以後の遍歴は多彩である。真言密教を学んでいた十九歳の頃、講師の突然の病死に遭った禅師は、自らの進路を決めるため百日の懺法(せんぼう・懺悔のための法要)を誓う。そして九十七日目の夢で、唐代の祖師「疎山」と「石頭」に出逢い、また夢中の長老から達磨の半身図まで授かる。それが禅へと参入する契機になり、また「夢窓」「疎」「石」の名前の由来にもなったのである。
たしかに夢は、現(うつつ)より遥かに心力(意識)がはたらきにくい世界。深い無意識の声も聞こえやすいに違いない。しかし忘れていけないのは禅師が夢に見るほど祖師たちの語録に親しんでいた事実。自在な筆致のこの「心」こそすでに心力を労しない心なのだろう。
2022/03/01 墨 2022年3・4月号(275号)(芸術新聞社)