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天真を養う 第9回

其の心

「應無所住而生其心」
慈雲尊者「金剛経」(臨済録・金剛経・碧巌録之句 三幅のうち一幅)
紙本墨書
京都・地福寺藏


 人間はあれこれ考えないではいられない存在だが、この「考え中」ほど困った状態はない。禅では「分別」「妄想」などと言って嫌うが、その最中には武道的にも隙だらけになる。いわば意識が過去のどこかに居着いてぐるぐる徘徊し、「今」が看取できなくなるのである。
 『金剛経』の「應無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」はその辺りの消息をじつに端的に表現している。應(まさ)に住(じゅう)する所無くして其の心を生ずべし、と訓(よ)むのだが、「住する」とは意識がどこかに居着くこと。人はそこから考え始めるのだが、それさえ無ければ「其の心」と呼ばれる「今」の心そのものが露わになるというのである。
 そういえば、臨機応変の権化(ごんげ)のような観音さまは、原語では「Avalokiteśvara(アヴァロキテーシュヴァラ)」と云う。鳩摩羅什と玄奘三蔵によってそれぞれ「観世音菩薩」「観自在菩薩」と訳されたが、いずれにしても「ava」は英語の「away」、「lokita」は「look」に通じるから、「離れて観る」お方なのだとわかる。慈悲も智慧も、あまり寄り添いすぎず、離れて観ることで涵養されるのだろう。
 じつはお経を唱えるときも、唇を通り過ぎる言葉の意味などに捕らわれるとすぐに間違える。これも「居着き(住する)」である。意味は気にせず、暗誦した音が口の端から出ていくのを次々に touch and release していくのが読経の基本だ。
 正直に云えば、touch and release という言い方はフィギュアスケートでのスピン中の視線から思いついた。たしか荒川静香選手がスピン中は何を見ているのかと訊かれ、目を閉じれば転倒するし一点を見つめてもすぐに目が回る、と話したあとで、視野の先頭に現れるものを次々見てはすぐ放す、と答えていた。スピンとはまさに touch and release の連続で可能になるのだとこのとき確信したのである。
 それにしても、慈雲尊者のこの文字には不思議な魅力を感じる。穂先を見せず、胴体だけで示されたような文字の連なりからは、柔らかさと同時に揺るぎなさも感じる。熟練したスピンのようなのだ。
 慈雲飲光は基本的には江戸時代後期の真言宗僧侶だが、戒律や儒学や神道にも精通し、一度は得度した大阪の法楽寺で住職に就くが、ほどなく同門に譲って信濃へ再行脚、曹洞宗の大梅禅師の許で印可も承けたとされる。日本における宗教宗派を自在に横断した末に梵語へと遡り、「正法律(真言律)」を打ち立て、人々のためには簡易な「十善戒」を説いた。
 慈雲尊者の定義する善とは、「理ニ順ジテ心ヲ起ス」こと。道理に随い、我が「はからい」を交えない心の在りようを云う。善も「其の心」も、いわば「はからい」なく、道理に随って発生した生まれたての心である。生まれたての心の連続であればこそ、スピンも可能なのではないか。

2022/05/01 墨 2022年5・6月号(276号)(芸術新聞社)

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