一九四一年四月に結ばれた「日ソ中立条約」は四年後の四月に一方的に破棄を通告され、ソ連は「連合国の参戦要請を受けた」と詐(いつわ)って八月八日に突如日本に宣戦布告した。その動きは一気呵成(かせい)で、翌九日の午前零時から南樺太、千島列島、満州国、朝鮮半島北部へと侵攻を始めたのである。
その頃私の父は陸軍歩兵として朝鮮半島北部にいたが、ソ連軍の捕虜になり、三年間の抑留生活をシベリアで送ることになった。
父は舞鶴への帰港後、大学にも復学し、その後は鎌倉の道場にも入って僧侶と高校教師を掛け持ちしながら子供三人を育ててくれたが、抑留生活については多くを語らなかった。
ただその労働は、気温がマイナス二〇度以下なら屋内作業になり、食事は大抵黒パンとスープだったこと、外の仕事の多くは樹木の伐採作業だったこと、凍土の凄(すさ)まじさなど、たしか中学生の頃の夕食時に聞いた覚えがある。
食卓には、妙に歪(いびつ)なアルミのスプーンが長いこと置いてあった。捕虜生活からの唯一の土産だと父は言ったが、一円玉ばかりを集めて何かで潰(つぶ)し、成形したらしく、歪なうえに銀色ばかりではなく、木っ端や土も混じっているようで、父も家で使いはしなかった。
開始後二ヶ月半となるロシアのウクライナ侵略でも、虐殺、拷問、拉致だけでなく、シベリアなどでの強制収容、強制労働が囁かれるようになった。まさかこの時代に、と誰もが疑うような暴挙だが、やはり本当なのだろう。人類の脳は約一万年前に劇的に進歩したあとは進歩していないとされるが、おそらくそのとおりなのだ。
そういえば父は、「とにかくソ連の連中は、南の海が欲しいんだ」「あれはもう本能のようなもんだな」と話していたが、眠っていた本能が春になると目覚めるのだろうか。
お寺の庭では今、藤や牡丹(ぼたん)、蘇芳(すおう)やツツジが咲き競い、池の周囲には杜若(かきつばた)や鉄線も咲きだした。クマンバチや蝶々(ちょうちょ)は嬉(うれ)しそうに飛び交い、自然の力満開の初夏の花園である。
しかし脳裡にはすぐにウクライナの黒煙あがる壊滅的な景色が浮かぶ。三月に行なうはずの小麦の植え付けも出来ず、それどころか多くの市民が国内外へ避難し、ミサイルや戦車の砲撃から逃げ惑い、家族を殺され、残っている誰もが命の危機にある。同じ地球の、同じこの季節の出来事であることが殊更に哀(かな)しい。
「仏の顔も三度まで」というが、これは「宿怨(しゅくえん)」をもつコーサラ国がお釈迦さまの故郷である釈迦国を攻めたとき、三度までは仲裁に入ったが、四度目は諦めたということである。弟子に理由を問われたお釈迦さまは、宿怨を無にすることができるかと逆に問うた。
ウクライナの人々の宿怨も、おそらく本能のように深く長く燻(くすぶ)りつづけるに違いない。
2022/05/15 福島民報