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『紫野』連載エッセイ 第1回

心の安全保障

 和語はじつに面白い。古代の日本人は「心」のことを「うら」と呼んだらしく、「うらやむ」は「心(うら)病(や)む」で、元は主に愛情関係における嫉妬を意味していたらしい(白川静『字訓』など)。
 自分もそうでありたいという願望が叶わず、「うらやむ」日々が続くとやがて「心(うら)」が動詞化し、「うれふ(憂ふ)」ことになる。「うら」→「うれ」のような母音転換が古代にはよく見られ、じつは願いが叶った場合の「うれし」も同じように「うら」からの変形らしい。
 「うれふ」と「うれし」が共に「うら(心)」から派生したのは興味深いが、漢字では圧倒的に「うれふ」意味の文字が多く、白川先生によればその数「百を超す」という。人間とは、うらやみながらうれひつづけ、たまにうれしがったりする生き物なのだろうか。
 ところで人は、自分の「うら」がそんな状態だと、神の心が気になってくる。神の心を問うことが「うらなう(占う)」である。
 霊能者や占い師は今でも各国で健在だが、彼らの特徴は複雑すぎる因果関係を単純化してくれることだろう。たとえばどうして自分の腎臓は急に悪くなったのかと問う人に、「あなたの先祖の一人がお地蔵さんに立ち小便をして、その悪果が巡り巡ってあなたに降りてきたのだ」なんて真顔で答える人もいたりする。そして彼らの助言は常に具体的で、それゆえに信じられないにしても遵守はされやすい。「お寺に行ってその先祖を供養してもらい、あなたは毎朝玄関前に盛り塩をし、しかも必ずどこかに赤いモノを身につけなさい」。
 言われたとおりにしていても改善しないと、今度は「うら(心)」がもっと高いエネルギーで動詞化し、「うらむ」ことになる。漢字では「恨む」「怨む」などと書くが、これは日本では「うら(心)」を表面化させず、うちに籠もらせつづけた当然の結果と理解される。心はやはり素直に表出すべきなのだ。ではいったい誰を「うらむ」のかというと、霊能者や占い師ではなく、当初「うらやんだ」相手なのだから「うら(心)」は本当に厄介だ。「うらやましい」相手はいつしか「うらめしい」対象に変わってしまうのである。

 こうした心の変化は、なにもストーカーにばかり起こるわけではない。誰にでも起こり得るのだが、私はいまロシアのプーチン大統領を想いながら書いていたことに気づいた。
 ある精神科医は、プーチン氏が身体的に病気を抱えているのは間違いないが、精神的にも病んでいると言う。おそらく「ナルシスティック・パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)」だというのだ。
 もともと自己愛の強いこの病気の患者は、「うらやむ」相手が自分ほどは自分を愛してくれないことを「うらむ」。途中の「うれひ」を跳ばしていきなり「うらみ」に向かうところが異常なのだが、これは「自己愛性憤怒(ふんぬ)」と呼ばれ、破壊的行動を生みだす。
 自分の存在が周囲から「承認されている」感覚が薄いため、彼らは「うらやむ」相手を尊重するのではなく、むしろ相手の存在を破壊して無きものにしたいと突発的に願望するというのだ。自分以外の、自分と重なるところのある何らかの「うらやましい」存在を認めてしまえば、自分の存在など簡単になくなってしまう、そんなふうに無意識に怯えているようなのである。
 いったいウクライナのどんな良いところを「うらやむ」のだろう。中世の都としてのキーウ(キエフ)、その伝統や文化もあるのだろうが、私がまず思い浮かべるのは黒海やアゾフ湾などの穏やかな内海である。昔から「不凍港」を求めて南下を繰り返した旧ソ連だが、EEZ(排他的経済水域)を含めると世界第五位の海を持ちながら、実質は六位の日本より使えない地域や季節が多いのである。
 さて「うら」という和語は、前述したように本来は「心」のことだが、ご承知のように「裏」にも「浦」にも訓(よ)みとして使われた。共通するイメージを感じたのだろう。なるほど「心」は「裏」に潜んで面(おもて)にも表にも出にくい。しかしそれなら「浦」には何を感じたのだろう。「浦」とは陸地が湾曲して海や湖が入り込み、波が穏やかで港にしやすい地形である。
 プーチンが黒海やアゾフ湾の「浦」を「うらやまし」がったのはおそらく間違いない。そして真後ろに大きく振り向けば、日本の海も充分に豊かで「浦」が多く、羨ましいのではないか。
 『日本書紀』には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が「日本(やまと)は浦安(うらやす)の国」と言ったと誌(しる)されている。浦安と聞けばディズニーランドを思い浮かべるかもしれないが、「浦安の国」とは我が国の美称で「心安らぐ国」のことだ。
 現代社会は心を安らかに保つことがじつに難しい。続く自然災害に新型コロナ、そして侵略、謀略、フェイクニュース。それにつれて変幻するのが「心」の特性である以上、変化は仕方のないことだが、せめて変化の法則をよく知り、「うらやむ」心が「うれい」から先に進まぬように、また「うらむ」心は小さなうちに融かしてしまうよう、心の安全保障としての「坐禅」をお勧めしたい。
 坐禅して深く滑らかに息を吐き、凪(な)いだ「浦」のような「心」になれば、平和はいつでもそこに現れる。

2022/07/01 『紫野』第61号(臨済宗大本山大徳寺)

タグ: 和語, 紫野