1. Home
  2. /
  3. エッセイ
  4. /
  5. 雪村屋敷跡地

雪村屋敷跡地

 雪村顕彰会の冨山章一さんから電話があり、「雪村屋敷跡地を見に来てほしい」と言われたのは二〇二一年も晩秋のことだったと思う。「風水的な環境を見てほしい」と仰るのだが、私にそんな専門的な判断は下せない。そうは思うものの、その前年に私は郡山美術館で「雪村と『山水』『風水』」というタイトルで講演している。責任もあるし、私自身も是非見てみたいと思ったから、いつとは言えないものの行ける時には連絡する、と約束してひとまず電話を切った。
 しかし訪問の機会は意外にも正月早々に訪れた。母が夏に亡くなって喪中だったため、今年は年始受けや年始廻りを休んだ。そのポカンとした一日に、ふいに行ってみたいと思ったのである。
 あらためて冨山さんと約束した下村田に着いたのは、午後の三時をまわっていた。私は女房と二人、冨山さんの姿を探したが、そこにはなんと十人ちかい人々が待っていた。どうやら冨山さんが顕彰会の人々に声をかけ、一同集合となったらしかった。
 大勢の先達たちに導かれ、我々はその山(とりあえず今はそう呼んでおく)に向かったのだが、わざわざ山と併行する南側の玉川筋を歩いて行ったのは、冨山さんにお考えあってのことらしかった。古くは瑪瑙を産出し、砂金も採れたという「玉川」だが、風水上も氣を動かす重要な通路に見えた。
 そして山から百メートルちかく離れた川筋を歩きながら眺めると、北側に森を背負った何軒かの家が横並びに小聚落をなし、家々には夕陽が妨げなく差していた。東から西まで広く展けたその環境だと、朝日が昇って夕陽が沈むまで、すべてが妨げなく家々から見渡せる。その一段上に建っていたであろう雪村屋敷は、おそらく「龍穴」を狙って建てられたのではないか。
 三春の雪村庵では月の動きがつぶさに見える印象だが、思えば太陽も月も同じ道筋を辿る。要はこちらのほうが東西の翼に当たる山が遠いため、広闊たる視界が展け、大袈裟に言えば「宇宙」さえ想ってしまいそうな、広大な気分にさせるのである。
 我々は西の端のほうから山に入り、斜面にそそり立つ杉の木の間を列をなして登って行った。苔むした小径をしばらく行くと窪地のような平地もあり、雪村屋敷があったと思しき場所にも枝間から夕陽が差し込んでいた。
 おそらく杉の木は、樹齢数十年だろう。つまり雪村屋敷があった頃にはなかった木々なのだ。第二次世界大戦中、日本は爆撃などで岩手県の面積に相当する森林を失ったとされるが、戦後には杉や落葉松を中心に恰度同じくらいの面積の植林がなされた。樹齢的にはそのくらいの時期の人工林に見えたのである。
 私は現在の山の景色から、疎らな広葉樹や照葉樹などに頭の中で木々を転換しながら当時の様子を想像した。風通しが良く、なにより斜面ゆえに水捌けもいい。陽は燦々と照らす理想的な居住環境ではなかっただろうか。
 もともと風水とは、理想的なお墓を求めるための理論だから、近くに墓地があるのは当然とも思える。斜面を登りつめると案の定お墓があった。そして驚いたことに更に登りつめたその先は、広々とした平地だったのである。
 つまり、南からは山と見えていた斜面だが、北側から見れば崖のようなもの。ある種の河岸段丘なのか、或いは大地の褶曲によるものかは不明だが、とにかくこの地形だと、間違いなく崖下の豊かな湧水は保証される。おそらく広々とした北側の大地に降った雨の多くが、崖下に通じる何本もの水脈に通じているはずだからである。
 思ったとおり別な道で崖を降りていくと湧き水を溜めて魚を泳がせている家があった。家の前を流れる堀の水も豊かである。
 水が通ればそれにつれて氣も通る。南側から見直すと、そこは清々しい壮年の氣を感じる「丘」に見えた。振り向くと、南側も遠い丘に囲まれている。そういえば高速からこの下村田に向かう途中、長い斜面を下ったことを憶いだした。静神社のあった地平からは、格段に下った地面なのだ。
 もしかするとここは、全体から水が湧いてもおかしくない広々とした窪地なのではないか……。かろうじて川のお陰で余分な水も澱まずに海まで運ばれていくが……。そう思うと、目の前一帯に中国の洞庭湖の湖面が見えるような錯覚を感じるのだった。
 齢を重ねると氣は次第に和らいでいくものだが、壮年期をここで過ごした雪村がやがて晩年に三春の雪村庵に住んだとすれば、理想的な転居に思える。
 動きの範囲が狭まる晩年には、ややコンパクトで閉じ加減の土地がいい。三春時代もけっして動きが少なかったわけではないだろうが、氣の動きに応じて少々狭まったはずである。そして死ねば白山、あるいはその先の崑崙山脈に、雪村は還るつもりではなかっただろうか。

 今後の雪村屋敷跡地のことを思うと、まずは一部でも植林された杉を減らし、雪村屋敷当時の環境を取り戻すことをお勧めしたい。また甲(かぶと)明神の祀られた場所は相当慎重に選ばれたはずだし、場合によっては雪村屋敷より以前から何かが祀られていたかもしれない。涼風が透る方向で保全してほしい。杉の活用法も何かあれば嬉しいが、今はそれに未練を寄せるべきではない。伐ったあとに再生した林こそ自然に近いと思うべきだろう。大丈夫、あの土地の湧水はそんなことで減ったりはしないはずだし、氣の動きもますます活溌になり、人々に活力を与える地力を取り戻すはずである。

2022/07/01 『雪村』第4号(雪村顕彰会)

タグ: 雪村