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特集 マインドフルネスとコンパッション

梯子と階段とエスカレーター

 今回いただいたテーマは、「マインドフルネスに対する批判と今後の展開~禅の立場から」である。どうやら私がマインドフルネスを批判するものと決めてかかっているようだが、……どうしようか。
 期待どおり批判するのが礼儀かもしれないが、私にその気分は薄い。気分を偽ってまで批判をすれば嫌な後味がつづくのは間違いない。やはりここは私自身のマインドのためにも正直に書くしかあるまい。
 実のところ私は、マインドフルネスの登場で瞑想への間口が広がったことを喜んでいる。ここで瞑想とは、最大限広い意味で使っている。つまり脳の演算機能による分析、判断、認識など、通常我々が「知性」と呼ぶ働き以外のすべてを指す。換言すると、デカルト的な「自己」が使いこなすのが以上の「分析知」だとすれば、ここで申し上げたい「瞑想智」は、その「自己」が溶暗した状態でこそ発現する。なぜか直観にすぐれ、身心も極めて親和的になってくる特異な状況である。
 おそらくインドあたりで宗教的な行のうちに発見され、意識化された技術、というより、脳を稼働するための特別な基本ソフト(OS=Operating System)ではないだろうか。β波で思考する日常的な状態と、α波やθ波による瞑想状態とは、たぶんOS自体が違うのである。
 子供時代には無意識に親しみながら、いつのまにか忘れていたこのOSと、私があらためて出逢ったのは坐禅を通じてだった。しかし禅道場という特異な環境だったので、それは単に瞑想なのではなく、「公案」に向き合う「止」(シャマタ)であり、またその集中が破れたときなどに偶々訪れる「観」(ヴィパッサナー)の時間だった。瞑想の総合指南書である『天台小止観』第六章には、坐禅の初心者は心が乱れやすいから、まず「止」を修して乱れを除き、それが無理なら「観」を修すべしとあるが、当時の私はそんなことも知らず、慣れない作務、托鉢などで困憊した状態で坐禅や読経を繰り返すうち、いつとも知れず「止」「観」に出逢っていた。それを明確に自覚したのは道場を出た後、『天台小止観』を読んだ時だったのである。
 結果として道場での止観の修習は、じつに速やかだった。生理学者の研究では暗誦したお経を唱えるだけで脳波はすぐα波になるそうだし、そんな影響もあるのだろう。ただそこでは、坐禅は常に目的が限定されない行であったため、「止」「観」という自覚はなく、実感としてはまるで薄暗い穴を梯子で昇るようなものだった。坐禅に慣れた頃、結果として屋上の光を何度か浴びてはいたものの、理屈は学べず、途中の景色も殆んど覚えていない。
 だから懇切にも階段で導く『天台小止観』に出逢ったことは、かなりの衝撃だった。そこでは坐禅が止観の「正修」と位置づけられ(第六章)、止観こそ悟りに到るための門であり、同時に修行法でもあり、また止観はあらゆる徳が円満する帰結点であり、じつは悟りの正体そのものなのだと書いてある(序文)。十章から成るその文章を読み、納得しつつ実践の階段を上っていけば、誰でも確実に屋上まで上っていけそうなのだ。しかも階段途中の壁には詳細な仏教情報が張り出されているため、じっくり見ながら上っていくと「止観」以外の素養も身につく寸法である。
 因みに『小止観』十章分の目次は以下の如くである。「縁を具えよ」「欲を去れ」「蓋(がい)(妨げ)を捨てよ」「調和をはかれ」「準備の行」「正修の行」「善根が発す」「魔事を覚知せよ」「病患を治せ」「証(さとり)の結果」。
 いかに総合的で多角的で上昇志向的であるかがこれだけでもわかるだろう。一読、すぐに感じるのは、それぞれの章に場合分けがとても多く、必ず自分に相当する状態が見つかる一方、すべてを我が事として納得するのはいかにも難しい。思えばこの書を奉ずる天台宗から日本の各宗派が分流したのだし、そうした過剰なまでの総合性は大元としてはやむを得ないのだろう。天台智顗(ちぎ)が語ろうとしたのは、あくまで「止観」を中心に据えた仏道全体の見方なのだ。
 以上のようなことを背景にしてマインドフルネスを見直すと、これはまるで屋上まで真っ直ぐに伸びたエスカレーターではないだろうか。禅道場の梯子みたいに踏み外して脱落する怖れもない。また『小止観』の階段のように、多くの仏教用語に囲まれてその学習や解釈に悩まされる必要もない。ただ屋上の光を目指せばいいのだ。
 そういえば、天台宗の本拠地たる比叡山で学んだ学僧たちも、その学習内容があまりに膨大で繁雑であるため、法然は山を下りて「南無阿弥陀仏」と称えるだけの浄土宗を始めたし、一方では坐禅やお題目に一本化する禅宗や日蓮宗をも生みだした。
 屋上の光を浴びたいというだけなら、なにも危険な梯子や面倒な階段を上らずとも、エスカレーターで行けばいい。現代社会でそう考える人が出てくるのは当然だろう。マインドフルネスは、そうした欲求に素直に応えて登場したのではないだろうか。
 指導に従っておずおずエスカレーターに乗ってみれば、専用の筒を昇るだけだから途中には仏教的な誘導もないし、余程のことがなければ踏み外す心配もない。ひたすら安全に屋上まで運んでくれるのである。わざわざ梯子や階段を使わずとも、屋上で仰ぐ光に違いはないはずではないか。
 いや……、もしかしたら苦労して自ら谷を下って飲んだ水と、その水を分けてもらった場合では、味も違うと言い張る人がいるかもしれない。……しかしまぁ、いいではないか。同じH2Oなのだし、同じ瞑想状態を味わったのだから。
 ただ一つ、私として申し上げておきたいのは、主に「観(ヴィパッサナー)」の修養時、たとえば歩行瞑想の際など、言葉で動きにラベリングをする指導者を時に見かけるが、あれはむしろ瞑想の深まりを妨げると思う。井筒俊彦氏は『意識と本質』(岩波書店、1983)のなかで、言語阿頼耶識という言葉で説明するが、じつは相当深い無意識にでも言葉だけは届き、瞑想を妨げる方向にはたらくようなのである。
 私はそんな場合、言葉ではなく筋肉の内部感覚の変化として把握するよう、体験希望者には勧めている。
 意識の在り方を意識するというのは、もしかすると新石器時代に劇的に進化した脳の、その後の唯一の進歩ではないだろうか。
 屋上の同じ光を浴びながら、三種の上がり方でそこに到った三人は、きっと平和で楽しい時を過ごすはず、いや、そうあって欲しい。
 

2022/10/05 精神療法 Vol.48 No.5(金剛出版)

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タグ: マインドフルネス, 瞑想, 精神療法