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特集「心ととのえる書」

そこに自由はあるんか?

 「心ととのえる書」という特集名を見て、私はあらためて「心ととのえる」とはどういうことだったかと、考えてしまった。
 私が属する臨済宗妙心寺派では、生活信条として次のような言葉を掲げている。「一日一度は静かに坐って、身(からだ)と呼吸と心を調(ととの)えましょう」……。つまり心に直接アプローチするのは難しいから、まずは坐を組み(あるいは正坐し)、身を正してから呼吸を調える、そうすれば心もおのずから調うということなのだろう。
 しかし忙しい日常では、そうしてただ坐って呼吸するだけの時間はむしろ持ちにくい。今の世の中、動いてなんぼ、という雰囲気があり、ただ坐っているのは肩身が狭いのだ。僧侶の私でも堂々と坐っていられるのは、せいぜい読経しているか文字を書いている時間くらいではないだろうか。じつに世知辛い世の中である。
 幸い私は、書く時間を二種類いただいている。一つはこの原稿を書くように、PCに文字を打つ時間。もう一つは、位牌や半紙や塔婆などに筆で文字を書く時間である。万年筆で手紙などを書くこともあるが、これは量的に前二者よりずっと少ない。
 PCに向かったり手紙を書いたり、それだけでも無論ありがたい時間だが、「心調う」効果を思えばやはり筆文字が圧倒的だろう。たとえば夫婦喧嘩のあとでも、あるいは有頂天になっているときでも、硯に水を差し、墨を摺りはじめるとすぐに穏やかで平明な気分になってくる。「得意淡然、失意泰然」という言葉もあるが、まさにそんな感じなのである。どういうことなのだろう?
 墨を摺るという単純な行為の反復、それによるセロトニンの分泌、あるいは龍脳の香りによる鎮静効果もあるのかもしれない。しかし大切なのはそのあとだ。使い慣れた筆をよく摺った墨に浸し、穂先を調えていると、そこに心が宿ってくる。もともと「かく(書く)」という和語は「掻く」に由来し、硬いもので少し柔らかいものを引っ掻いたようだが、筆を持った我々は最早どんな圧力とスピードでどこに打ち込み、その後どう筆を動かそうと自由だ。むろん制約あっての自由だが、私はそう思うことにしている。
 紙や木をむしろ「なぞる」ように、複雑な筆圧調節もしながら前後左右自在に筆を動かす。無意識にそうできることが、どれほど広く脳機能を活性化させることだろう。書き進むほどに制約は増えるが、それでも私は「あんた、そこに自由はあるんか?」と念じながら書きつづけ、そして何かを書き終える。
 色紙、位牌、塔婆で気分はずいぶん違うが、最も自由を意識するのは写経だろう。まっさらな紙に書くのではなく、印刷された筆跡をなぞるのがいい。「心調う」とは、おそらくいかようにでも書ける気分のまま、どんな文字をも忠実になぞれる心なのだ。

2022/11/01 墨 2022年11・12月号 279号(芸術新聞社)

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