冬の境内を歩いていると、よく桜の枯れ枝を見つける。木枯らしに耐えかね、折れたのだろう。土に還ることを想い、私はそのまま歩き去る。昔から「桜切る莫迦、梅切らぬ莫迦」などと言うが、桜の古枝はこうして厳しい自然が静かに淘汰してくれているのである。
ただ最近は、弘前城跡の桜で剪定が試みられ、これが花数を増やしたというので、三春の滝桜でも剪定するようになった。足場代が八百万円余りと高額なため、五年に一度だが……。新しい枝だけに花芽はつくというから、花を増やすには確かに効果的なのだろう。
ところで古代の人々は、桜の枝が風で折れるこの季節を「ふゆ」と呼んだ。中国から漢字「冬」が入り、その訓読みに用いたわけだが、原義は「ふえる」意味の自動詞である。いったい彼らは葉を落とした木々に囲まれ、寒々しい景色のなかで、何が「ふえる」と感じたのだろう。花芽か、それとも土の中だろうか……。「はる」(春)は「張る(ふくらむ)」に由来するようだから、とにかく膨らむためには何かが増えているはずだ、ということだろうか。
冬枯れの境内を歩いていると、更に桜どうしの通信や桜と別な木との連絡についても考える。一本の桜なら、枝をぶつけないのは当然と思えるが、桜は隣の木と枝が交差するほど伸びても、桜どうしならけっして枝をぶつけない。きっと通信が行なわれているのだ。
ところが桜と近づきすぎた椿や柘植は、そうした交渉もあったのかもしれないが、和平交渉は決裂したのだろう。遂に桜は覇権的に椿や柘植の枝群を突き破り、我がもの顔で伸びている。
どうしても先の大戦の惨禍を想ってしまう。中国では日中戦争のさなか、すでに公園などに植えられていた桜を、根こそぎ伐ったという。昭和十四年にキングレコードからリリースされた軍歌「同期の桜」の影響もあっただろう。この歌の原曲は前年に出た「戦友の唄」別名「二輪の桜」で、一斉に一気に散るその潔さはやがて特攻隊を鼓舞する歌にもなっていく。
私は境内を歩きながらしばし知りもしない戦争を想い、またウクライナでの戦禍も想うのだったが、やがてこの桜たちに罪はないと思い直す。「同期の桜」ではなく、むしろ「桜の同期」こそ不思議で魅力的ではないか。
「同期」は「synchronicity」の訳語として「共時性」に取って代わった。学問として扱うには、ユングの「共時性」には手垢がつきすぎていたのだろう。
学問的な探求の契機になったのは、マレーシアのセランゴール川で観察されたホタルの同期。同じ木にいるホタルが一斉に同じテンポで光るため、闇の中で木全体の大きな光輪が明滅していたのである。他にもコオロギのすだく音や、ネズミの群れにおける雌ネズミの生理期間など、意志的にはどうしようもないものが集団のなかで近似し、同期してくる。人間でも、心臓の約一万箇のペースメイカー細胞が同期して収縮するから、無事に生きていられるのだ。
命が集まればきっと不思議なことが起こる。桜の並木が一斉に咲きだすのも、同じ環境のせいばかりでなく、やはり同期ではないだろうか。
人も大勢集まり、特に仲良しになると、その影響は大きい。アメリカでは仲良しの女生徒どうしの生理が近づくことが確認されている。男性とて見えにくいだけで何かあるに違いない。禅語に「花を弄すれば香衣に満つ」があるが、香りが衣に移る以上の変化が、今から楽しみでもあり、怖いような気もする。
2023/03/01 うえの 2023年3・4月合併号