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『紫野』連載エッセイ 第2回

授戒と白木槿(しろむくげ)

 先日、三年前に旦那さんを亡くされた奥さんが、自分も受戒して戒名を授かりたいと、手紙をくださった。早速日程を決め、授戒会を行なったのだが、私自身「戒」について考える良い機会だったのでご報告したい。
 戒は本来、生前に授かるべきもので、仏教徒としての生活の指針である。臨済宗の場合、大抵は『梵網経』に由来する「十重禁戒」などを授けることが多いようだが、これは伝教大師最澄の「大乗円頓戒」に依っている。「円戒」とも呼ばれるこの戒は、他に「四十八軽戒」と呼ばれる細かい戒律も含むが、在家さんへの授戒の場合は「十重禁戒」で済ませることが多いようである。
 うちの寺で伝統的に用いているのは次のようなものだ。

第一不殺生(ふせっしょう)戒  すべてのものの尊き生命(いのち)を軽んずるなかれ。
第二不偸盗(ふちゅうとう)戒  与えられざるものを不正に手にすることなかれ。
第三不邪淫(ふじゃいん)戒  道ならぬ所業に心を惑わすことなかれ。
第四不妄語(ふもうご)戒  偽(いつわ)りの言葉に馴(な)れて人を欺(あざむ)くことなかれ。
第五不飲酒(ふおんじゅ)戒  無明(むみょう)の酒を飲み、正体を失うことなかれ。
第六不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒  他人の過(あやま)ちを言いふらすことなかれ。
第七不自讃毀他(ふじさんきた)戒  己の所業を誇り、他を悪しざまに言うことなかれ。
第八不慳貪法財(ふけんどんほうざい)戒  物でも心でも人に与えることを惜しむなかれ。
第九不瞋恚(ふしんに)戒  一時の瞋恚(いかり)によりて己をとり乱すことなかれ。
第十不誹謗三宝(ふひぼうさんぼう)戒  仏法僧の三宝に不信の念をいだくことなかれ。

 

右、十の禁戒は日々刻々の慎みなり。よくこれを持(たも)つべし。
汝、是を能(よ)く持(たも)つや否(いな)

 柝(たく)を打ちながらご本人にも唱和していただき、最後に「是を能く持つや否や」と訊くのに対し、「能く持ちます」と答えていただく。むろん、それ以前に『般若心経』で本尊回向、『白隠禅師坐禅和讃』で亡くなった旦那さんやご先祖にも回向している。
 元気な返事を確認し、形だけ剃刀を髪に当てながら、私はどうしてもウクライナでの戦禍を想った。
 十の戒には戦争の文字はないが、思えばこれらは戦争の勃発で一瞬に霧消してしまうものではないか。「殺生」が各地で毎日起こり、「偸盗」や「邪淫」も戦地では日常茶飯事である。プロパガンダや贋籏作戦などは「妄語」そのものだし、兵士たちの夜は盗んだ酒で酔わねば眠れないに違いない。すべては相手の「過罪」と思い込み、「自讃」と「毀他」で「瞋恚」を煽ってこそ戦い続けられる。
 不誹謗三宝戒が最後にあるのはどう考えればいいのだろう? 命だけは助かりたいと思う兵士やその親族の心が、神への祈りだけは最後まで失わせないということか……。しかしその神のご加護を逆手にとり、兵士は翌朝、また新たな殺生に向かうのだ。いや、彼らには昼と夜の区別さえなくなっているのではないか。ロシアのミサイル攻撃は特に未明に多いような気がする。
 宗教も違うのにそんなことまで想ってしまい、自分がいま居る本堂がいかに平和であるかを痛感する。境内の楓が色づきはじめ、山法師や桜の葉も紅葉して陽に耀いている。
 そういえば昔、殺生でいちばん罪深いのは時間の殺生だと、ある老師が力説していた。怠慢や遅刻でも他人の時間を奪うことになるわけだが、いったい戦争が奪う人々の時間はどれほどだろう。奪われた人生時間の合計は、天文学的な数値ではないか。
 合掌し、かねて確認済みの戒名を受け取って礼拝するご夫人の彼方に、今年境内に植えた大徳寺白木槿(しろむくげ)の苗木が見えた。どうか育ててほしいと、なぜか会ったこともない庭師から戴いたのだ。しかも私はかねてより白木槿が欲しいと思っていたから、心底驚いた。
 静岡県の本山で参禅しているというその庭師によれば、白木槿の寿命は三十年ほどで、剪定せずに育てると高さは十五メートルにもなるが、花は小さくなるという。一方、剪定して小ぶりに育てれば、花数は少ないものの大輪の花を咲かせるらしい。私は考えた末、二つの苗木を別々なやり方で育てようと、境内と畑の片隅に植えた。
 以来、大徳寺白木槿は私の人生の残り時間を象徴するものになった。寿命がおよそ三十年なら、その頃私は九十六歳。はたしてどちらが先に枯れるものか……。
 清々しい顔で本堂から墓地へ向かうご夫人と娘さんを眺め、私はあらためて第八不慳貪法財戒を想った。戦地の周囲にも、私財を被災者に惜しみなく提供する人々がいる。私も今後どれだけ生きられるかはわからないが、せめて白木槿の成木の生気と真夏の涼蔭ほどの何かを、提供できる日々でありたい。
 平和であればこそ戒も「能く持つ」ことができる。そんなことをしみじみ思う秋の一日であった。

2023/01/01 『紫野』第62号(臨済宗大本山大徳寺)

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